万里の長城とは
万里の長城(ばんりのちょうじょう)は、古代中国で建設された、世界最大級の防御施設。中国北部を東西に横断する巨大な壁で、総延長は約21,196kmにも及び、日本列島(北海道から沖縄まで)の長さの約7倍。しかも単に一直線に続いているわけではなく、地形に合わせて曲がりくねりながら山々や砂漠を越えて築かれています。
万里の長城は、(紀元前7世紀~紀元前3世紀)秦の始皇帝(紀元前221年~紀元前210年)の時代に建築が始まり、明王朝時代(1368年~1644年)まで続けられました。日本で言えば、卑弥呼さんが生まれる前に建築が始まり、家康さんが徳川幕府を始めた頃くらいまで建築され続けられました。今回はそんな万里の長城の歴史や、都市伝説などを紹介していきます。
建設の歴史
万里の長城は、秦の始皇帝(紀元前221年~紀元前210年)の時代に作られ始めました。その後、漢、隋、唐、明などの各王朝が補強・拡張を行い、現在見られる姿の多くは明王朝時代(1368年~1644年)に築かれたものです。秦の始皇帝の時代には、約30万人~100万人が強制労働に従事し、最盛期の明王朝時代には推定200万~300万人が動員されたとも言われています。万里の長城は実に2千年かけて築かれました。万里の長城は清王朝の時代に破棄されましたが、日中戦争で、中国の抗日軍が旧日本軍に対抗する為に使用しました。
中国(出来事・王朝) | 日本(出来事・有名人) |
紀元前221年~紀元前210年 (秦の始皇帝が長城を建設開始) |
縄文時代後期~弥生時代初期 (稲作の導入) |
紀元前202年~紀元後220年 (漢王朝が長城を拡張) |
弥生時代 (青銅器が使われ始めた) |
220年~280年 (三国時代:長城の維持) |
弥生時代後期~古墳時代初期
(卑弥呼) |
423年~500年頃 (北魏が長城を修復・拡張) |
古墳時代 (大和政権成立) |
581年~907年 (隋・唐が長城を改修) |
飛鳥時代~平安時代 (聖徳太子) |
960年~1368年 (宋・元の時代:長城の維持縮小) |
平安時代~室町時代 (源頼朝) |
1368年~1644年 (明王朝が現在の万里の長城を建設) |
室町時代~江戸時代 (織田信長・豊臣秀吉・徳川家康) |

目的と機能
万里の長城は、遊牧民族の侵入を防ぐための防衛線として建設されました。また、軍隊の移動や情報伝達の役割も担っており、烽火台(ほうかだい)と呼ばれる通信施設を使って、敵の襲来をいち早く知らせる仕組みが整えられていました。ほかにも自国の民が勝手に国境を越えて逃げるのを防ぐ目的 があったとも言われています。特に、税負担が重かった時代には、農民が逃亡するのを防ぐのに長城が使われたという説があります。
特徴
万里の長城は、地形に合わせて築かれ、山岳地帯では急勾配の壁、平地では広い土壁が造られました。主な材料は、石、煉瓦、粘土などが用いられ、場所によって異なる構造が見られます。さらに、長城の上には見張り台や城門が設置され、敵の侵入を防ぐ工夫が施されています。総延長は約21,196kmにも及び、日本列島(北海道から沖縄まで)の長さの約7倍。しかも単に一直線に続いているわけではなく、地形に合わせて曲がりくねりながら山々や砂漠を越えて築かれています。その広大さゆえに、観光客が遭難する事故も発生しています。
1972年のミッション「アポロ17」で月を訪れたユージン・サーナンが、「万里の長城が宇宙から見えた」と発言したことで、万里の長城は宇宙からでも見える建造物と言われていましたが、これは後にデマであると分かりました。しかし、そのデマが多くの人に信じられたという事実がまた、万里の長城の大きさを物語っています。



都市伝説
万里の長城は、単なる歴史遺産ではなく、多くの都市伝説や怪談に包まれた神秘的な場所でもあります。その壮大な歴史の中で生まれた数々の都市伝説を紹介します。
さまよう兵士の亡霊
万里の長城では、建設中に亡くなった労働者や兵士たちの霊が彷徨っていると言われています。夜になると、鎧をまとった兵士の影が長城を歩いているのを見たという目撃談もあります。
特に有名な心霊スポット:
- 居庸関(北京市近郊)
- 慕田峪長城(静かで不気味な雰囲気がある)
- 司馬台長城(観光客が夜中に不可解な声を聞いたと報告)
壁に埋められた人々
伝説によると、建設時に亡くなった労働者の遺体がそのまま長城の壁の中に埋め込まれたと言われています。これは、死者の魂が長城を守ると考えられていたためとも言われています。
しかし、考古学的には長城の壁から人骨は発見されておらず、あくまで伝説の可能性が高いです。ただし、当時の過酷な環境を考えると、多くの人々が命を落としたのは事実でしょう。
孟姜女(もうきょうじょ)の伝説
中国では「孟姜女の悲恋物語」が万里の長城にまつわる伝説として語られています。
あらすじ
孟姜女の夫は、強制労働で万里の長城の建設に駆り出されました。彼女は夫を探して旅を続け、ようやく長城にたどり着いたものの、すでに夫は亡くなっていました。悲しみに暮れた孟姜女が長城の壁の前で泣き続けると、彼女の涙で城壁が崩れ、夫の遺体が出てきたと言われています。
この話は、圧政に苦しむ民衆の悲劇を象徴するものとして、中国で広く知られています。
終わりなき長城
万里の長城は東端の山海関(河北省)から西端の嘉峪関(甘粛省)まで続くとされていますが、一部の伝説では「本当の終点は見つかっていない」とも言われています。
- 地下にも長城が続いているとか
- 異世界に通じる門がどこかに隠されているとか
- まだ発見されていない秘密の部屋や地下通路があると噂されています
実際、長城の多くの部分は砂漠や山中に埋もれているため、未発見の部分があってもおかしくないのかもしれません。
謎の人影
観光客や地元の人々の間では、「長城の上で人の姿が見えたが、近づいたら消えていた」という報告が後を絶ちません。
特に霧の多い日や夕暮れ時には、
- 城壁の上に黒い影が立っている
- 歩いている兵士のような姿を見た
- 無人のはずなのに足音が聞こえる



観光スポットと最寄り駅
万里の長城は、その壮大なスケールと歴史的価値から世界中の観光客を魅了し続けています。各地点ごとに特徴があり、建設された時代も異なります。ここでは、主要な観光スポットとその歴史、特徴、最寄りの駅などの情報を紹介します。
八達嶺長城 – はったつれい(明王朝 1500年代)
八達嶺長城は北京防衛の最前線。万里の長城の中でも最も有名で保存状態の良い区間の一つです。明王朝時代(1368年~1644年)に大規模な修築が行われ、現在の姿になりました。観光設備も充実しており、初心者でも訪れやすい場所です。
歴史的背景:
- 八達嶺長城は明王朝の最重要防衛拠点の一つで、北京の北側に位置し、首都防衛の最前線として機能していました。
- 1500年代、明の将軍、戚継光(き けいこう)による改修が行われ、堅牢な石造りの城壁が築かれました。
- 清王朝(1644~1912年)時代に入り、八達嶺長城は一時的に放棄されましたが、1860年の第二次アヘン戦争時に英仏連合軍がここを通過し北京を占領するなど、歴史の舞台となりました。
特徴:
- 万里の長城の中でも最も有名で、保存状態が非常に良い。
- 緩やかな坂道と階段があるが、歩きやすい。
- 壮大な山々の尾根に沿って築かれているので、周囲は緑豊かで、四季折々の美しい風景が楽しめる。
最寄り駅:
- 八達嶺駅(北京北駅から京張高速鉄道で約30分)
- 駅から長城入口まで 約2km
慕田峪長城 – ぼでんよく(明王朝 1400年代後半)
慕田峪長城は静かな防衛拠点。北斉時代に築城され、明王朝時代の1400年代後半に修築された区間で、比較的観光客が少なく、ゆったりと見学できます。森に囲まれた美しい景観が魅力。
歴史的背景:
- 慕田峪長城は、北斉時代(550~577年)に築かれた長城を基礎とし、明の洪武帝(1368~1398年)が再建し、1500年代にさらに強化されました。
- 山岳地帯を利用した防御戦略が特徴であり、要塞のような造りを持つ。
- 八達嶺長城よりも侵攻リスクが低いと考えられたため、比較的静かな防衛拠点でしたが、北元(明に滅ぼされたモンゴル勢力)が北京侵攻を狙った際に戦場となったことがある。
特徴:
- 防御設備が強化されており、密集した敵楼(見張り台)が特徴。
- ロープウェイやリフトでアクセスできるため、上空からの絶景も楽しめる。
- 比較的穏やかな地形で、長城が滑らかに続く景色が魅力。
最寄り駅:
- 懐柔北駅(北京駅から約1時間)
- 駅から長城入口まで 約17km
司馬台長城 – しばだい(明王朝 1500年代)
司馬台長城は最も険しい戦闘地形で、明王朝時代の1500年代に建設された長城。最も急勾配の区間ですが、夜間ライトアップされることで有名で、幻想的な雰囲気が楽しめます。
歴史的背景:
- 司馬台長城は、明の成祖・永楽帝(1402~1424年)の時代に拡張され、その後1500年代にさらに改築されました。
- 最も急勾配な区間の一つであり、敵の侵入を困難にする構造を持つ。
- モンゴルとの攻防戦の最前線だったため、攻撃に備えた設計が随所に見られる。
特徴:
- 長城の急勾配が顕著で、まるで長城が天に向かって伸びるような光景。
- 夜間のライトアップがあり、幻想的な雰囲気になる。
- 最も急勾配が激しく、「天梯(天への階段)」と呼ばれる非常に急な階段がある。
最寄り駅:
- 古北口駅(北京から電車で約2時間)
- 駅から長城入口まで 約10km
金山嶺長城 – きんざんれい(明王朝 1500年代)
金山嶺長城は当時の兵士の記録が残っており、最精巧な防御施設。明王朝時代の1500年代に築かれ、現存する長城の中でも特に写真映えする場所として知られています。長く続く階段と見晴らしの良い景色が特徴。
歴史的背景:
- 金山嶺長城は、明の嘉靖帝(1521~1567年)の時代に拡張され、戚継光によってさらに強化された。
- 城壁に刻まれた兵士の名前や、命令書が今でも一部残っているため、当時の軍事記録が垣間見える。
- 明王朝の北方防衛線の中でも特に重要視され、精鋭部隊が駐屯していた。
特徴:
- 一部は崩壊しているが、そのまま保存されており、歴史の趣を感じられる。
- 朝日や夕日が美しく、写真撮影のスポットとしても人気。
- ほかのスポット比べて人が少なく、長城本来の雰囲気を楽しめる。
最寄り駅:
- 滦平駅(北京駅から高速鉄道で約1時間)
- 駅から長城入口まで 約20km
山海関長城 – さんかいかん(明王朝 1381年)
山海関は万里の長城の東端として知られ、1381年に明王朝によって築かれました。海に面しているため、長城の始まりを象徴する場所です。北方から明に攻めてきた、清軍の侵入経路になった場所でもあります。
歴史的背景:
- 1381年、明の洪武帝(朱元璋)によって築かれ、「万里の長城の東端」と呼ばれる。
- 清朝の始まりとなる歴史的事件(李自成の反乱)が起こった場所
- 1644年、明が滅亡した際に、清の順治帝がここを突破して北京を占領したことで有名。
特徴:
- 町の中にあり、周囲には古い城郭都市が残っている。
- 長城の東端として、シンボリックな意味を持つ。
- 「老龍頭」と呼ばれる海に突き出た部分が特徴的。
最寄り駅:
- 山海関駅(北京から高速鉄道で約2時間)
- 駅から長城入口まで 約5km
嘉峪関(明王朝 1372年)
嘉峪関はシルクロードの要塞として機能していました。長城の西端にあり、1372年に明王朝によって築かれた、砂漠地帯にそびえ立つ城塞です。
歴史的背景:
- 1372年、明王朝によって建設され、「万里の長城の西端」として知られる。
- シルクロードの要所であり、交易と防衛の二重の役割を果たしていた。
- モンゴル、チベット、中央アジアの勢力と明の交戦地点としても知られる。
特徴:
- 砂漠の中にそびえ立つ壮大な要塞。
- 乾燥した気候のため、荒涼とした景色が広がる。
- 冬には遠くに雪山が見え、広大な風景が楽しめる。
最寄り駅:
- 嘉峪関南駅(蘭州から高速鉄道で約4時間)
- 駅から長城入口まで 約6km
秦の始皇帝による長城の遺構
秦時代に建設された万里の長城は、土や木を主に使用して作られ、その後の王朝(特に明王朝)によって石やレンガで大規模に改修されましたので、現在の主要な観光スポットにはほとんど残っていません。しかし以下の地域には秦代の長城の遺跡が一部残っています。
内モンゴル自治区 固陽県の長城遺跡
内モンゴル自治区の包頭市固陽県の長城遺跡は、当時の防衛戦略と建築技術を今に伝える貴重な史跡として注目されています。
甘粛省 臨洮の長城遺跡
甘粛省臨洮付近にある長城遺跡は、秦の西部防衛ラインとして機能していたと考えられています。
遼東地域の燕・秦・漢長城遺跡群
吉林省通化市の渾江中段およびその支流沿いの山岳地帯には、戦国時代から西漢時代にかけての長城遺跡が点在しています。これらの遺跡群は、秦代の長城の一部と考えられており、当時の軍事防衛線の構造を示しています。
秦時代の長城遺跡は、観光用に整備されていない場所が多く、一般的な観光スポットとして訪れるのは難しいかもしれません。実際、当記事を書くにあたり、色々調べましたが、なかなか見つからず、中国語を翻訳しながら調べて、やっといくつか見つけました。もし「秦時代に築かれた長城」を見たい場合は、研究者向けの遺跡を訪れる形になるかもしれません。
まとめ
万里の長城は、中国の歴史と文化を象徴する壮大な建築物であり、そのスケールや歴史的意義から世界中の人々を魅了し続けています。よく万里の長城は人類が建造した無用の長物の一つとして扱われることがあります。確かに、万里の長城は何度も外敵の侵入を許しています。しかし、実際、多くの中国王朝が長きにわたって増築や改築をしているのを見ると、万里の長城は無用の長物ではなかったのだと感じます。万里の長城を訪れる際は、その壮大さと歴史に思いを馳せながら歩いてみることで、より一層感動が深まりそうですね。



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