カルタゴとは
カルタゴは、現在のチュニジアにあたる場所に存在していた古代都市国家で、紀元前9世紀ごろにフェニキア人によって建設されたと伝えられています。カルタゴは豊かな港と商業によって栄え、地中海交易を支配するほどの影響力を持っていました。また、農業技術にも優れており、周辺地域への影響力を拡大していったことで、やがてシチリア島やイベリア半島(現在のスペイン)などにも拠点を築いていきました。
カルタゴは、海の女王と謳われ、西地中海最強国として繁栄しましたが、同じく地中海の覇権を狙う共和政ローマに敗北し、滅亡しました。今回は、そんなカルタゴの政治制度や歴史を紹介していきます。


カルタゴの創始者 – ディドー女王
カルタゴの創始者、エリッサ姫(後にディドー女王と呼ばれる)は、フェニキア(現在のレバノン)の都市国家ティルスに誕生しました。
エリッサは、兄ピグマリオンが都市ティルスの王位に就くと、次第に命を狙われるようになりました。ピグマリオンは金や権力を求め、エリッサを脅威と見なしていたのです。エリッサの夫であるアケルバスが、ピグマリオンに殺されたことがきっかけで、エリッサは、忠実な家臣たちとともにティルスを脱出します。
彼女は船に財宝を積み込み、地中海を航海しました。エリッサ達が北アフリカの地にたどり着くと、現地の支配者から「牛の皮一枚分の土地なら譲る」と言われたので、エリッサは、牛の皮を細長く裂き、それでビュルサの丘を囲いました。その地に築かれたのがカルタゴでした。カルタゴはフェニキア語で「新しい都市」を意味します。
このようにして、伝説によれば紀元前814年ごろ、カルタゴが誕生したとされています。

ディドー女王によるカルタゴ建国:出典 J. M. W. Turner – The Athenaeum
ディドー女王の死 – ローマにかけた呪い
ローマの英雄叙事詩「アエネイアス」によると、ディドーはトロイア戦争に敗れて逃れてきた英雄アイネイアスと恋に落ちます。
しかし、アイネイアスは神託に従いイタリア半島へ旅立ってしまいました。捨てられたディドーは絶望し「ローマの末裔よ、我が民カルタゴと永遠に争え」と呪いの言葉と共に自害します。これはローマとカルタゴの宿命的な対立を暗示する存在となります。
しかし、これは歴史というより神話的要素が強いです。なぜなら、後にアイネイアスの息子がアルバ・ロンガという都市を建国しますが、このアルバ・ロンガの第13代王の孫こそ、ローマの創始者ロムルスです。
カルタゴ建国は、ローマ建国よりも少し前くらいだと言われていますので、ディドー女王がとんでもなく長寿でない限り、ローマ建国から数えて、数百年前の人物であるアイネイアスと恋に落ちるわけがないのです。

ディドー女王の死:出典Marie-Lan Nguyen


共和政カルタゴの政治体制 – 万学の祖に理想的な政体と言わしめる
評議会の構成と役割
評議会は、貴族階級の長老たち(終身制)で構成されていました。人数は約30人〜数十人だったと考えられています。評議会は、最も権威ある意思決定機関の一つであり、実質的にカルタゴの内政・外交・戦争の可否などの軍事方針を議論・決定していました。他にも、スフェトや将軍など、他の官職者の選出や承認を行っていました。アリストテレスによれば、彼らは非常に有能で、カルタゴの安定を支える柱であったそうです。
スフェトの構成と役割
スフェトは貴族階級から選ばれた2名の最高政務官です。任期は1年で、同時に2人が就任します。独裁的な権限を持たず、常に合議的に行動することが求められました。王政廃止後の最高行政官として、将軍の選任・監督、民衆や外国との交渉・取りまとめ、評議会や百人会の議題の調整・運営を担いました。
将軍の構成と役割
将軍職は貴族のみから選出され、軍事経験や名門出身であることが重要視されました。将軍は戦時における指揮官であり、戦争の遂行においては絶大な権限を持ちました。ただし、遠征に出る将軍たちの行動は、百人会によって監視されています。主な役割は、軍の編成と指揮、作戦立案と戦場での決定権、場合によっては征服地の統治なども行っていました。
百人会の構成と役割
百人会は、有力な市民(上層市民)から選ばれた104人のメンバーで構成されていました。この機関は、将軍やスフェトといった執行権を持つ者を監視・抑制するための強力な司法・監察機関でした。軍事行動を終えて帰国した将軍は、ここで厳しい報告義務と追及を受けることがありました。政治・軍事における不正の監視、スフェトや将軍の監査、法執行の監督を行っていました。
カルタゴの繁栄 – 西地中海最強の都市国家に
カルタゴは、貿易・植民・軍事・外交といった複数の手段を通じて、西地中海へ勢力を拡大していきました。その発展は一気に進んだものではなく、時間をかけて徐々に形成されていきました。最初は都市ティルスの植民都市として始まったカルタゴでしたが、その勢力は都市ティルスをはるかに上回るものとなっていき、事実上都市ティルスから独立しました。ここでは、カルタゴがいかにして、勢力を拡大していったかを紹介していきます。
西地中海への拡大(紀元前7〜6世紀)
カルタゴは海洋貿易を通じて経済的な基盤を築き上げ、西地中海地域へと勢力を伸ばしました。まずカルタゴが着手したのは、北アフリカ沿岸部の支配強化です。カルタゴ周辺の先住民(リビア人やヌミディア人など)と交易・軍事的関係を築きながら、アフリカ内陸部への影響力を拡大しました。
北アフリカでの勢力を確立すると、海上交易の拠点として重要な、シチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島などの、島々に進出し、フェニキア系の植民都市や商業拠点を確保しました。他にもイベリア半島へ拠点拡大、タルテッソスなどの先住民族と接触し、鉱山資源(銀、銅など)を手に入れ、貿易拠点や植民地を築いていきます。
カルタゴはティルスから引き継いだ交易ネットワークを基盤に、植民と軍事によって西地中海の覇権を徐々に握っていきました。

カルタゴ(Carthage)の領土
ギリシア世界との対立と軍事的拡張(紀元前6〜5世紀)
カルタゴはギリシアの植民都市とたびたび衝突するようになります。シチリアのギリシア人都市との抗争、特にシラクサなどの強力なギリシア植民都市との戦いは激化し、「シチリア戦争」と呼ばれる連続的な戦争状態に入ります。
カルタゴは軍を強化するため、軍隊の傭兵化を実施しました。多民族国家だったカルタゴは、市民軍よりもリビュア人、ヌミディア人、イベリア人、ガリア人などからなる傭兵部隊を多用しました。この傭兵制度はカルタゴの軍事力拡大に貢献しました。
この時期、カルタゴは商業国家であるだけでなく、軍事国家としての性格も強めていきます。
ローマとの衝突 – 第一次ポエニ戦争、カルタゴ衰退への第一歩
第一次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)は、ローマとカルタゴという地中海の二大勢力が、初めて本格的に激突した戦争です。この戦争でローマは初めての海外進出。一方でカルタゴはすでに海外に進出しており、カルタゴの海軍力は、ローマのそれを、数と質ともに遥かに上回っていました。しかし結果はカルタゴの敗退。そこにはカルタゴの立場や行動、苦悩、誤算、そして失敗がありました。ここではカルタゴの運命を変えた第一次ポエニ戦争について、カルタゴの視点から紹介していきます。
第一次ポエニ戦争の発端 – メッシーナを巡る争い
戦争の直接の引き金は、シチリア東端の都市メッシーナを巡る争いでした。ここでは傭兵集団「マメルティニ」が支配権を握っていましたが、彼らがカルタゴとローマの両方に援軍を求めました。
カルタゴはこれに応じてメッシーナに兵を派遣し、影響力を確保しようとしました。しかしローマもメッシーナに軍を送り、直接シチリアの争いに介入してきます。メッシーナに到着したローマ軍は、カルタゴ軍を排斥するような動きを見せ、カルタゴ軍は一時的に、メッシーナを撤退することになります。
カルタゴにとってこれは、ローマがついに海を越えてカルタゴの影響圏に足を踏み入れた瞬間であり、カルタゴはこれをローマの敵対行為とし、戦争が勃発しました。
カルタゴ軍とローマ軍の戦力比較(開戦時)
カルタゴは海洋国家として、西地中海に多くの拠点を持っており、強力な海軍を有していましたが、陸軍は傭兵中心でした。一方でローマは、海外に拠点を持っておらず、これといった海軍を有していませんでしたが、陸軍は、市民を中心に成り立っており、高い士気がありました。また、ローマはイタリア半島統一に至る道のりで、多くの陸戦を経験しており、ローマ陸軍は豊富な戦闘経験と、洗練された戦術を有していました。
カルタゴ陸軍
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編成:多国籍の傭兵軍
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人数:1万~3万
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強み:騎兵・軽装歩兵の高い機動性
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弱み:統一性が低く、忠誠心に欠ける
ローマ陸軍
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編成:市民兵中心の重装歩兵軍団
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人数:2万~4万
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強み:組織力・規律・補給能力
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弱み:機動力が低い、山岳・ゲリラ戦にやや不向き
カルタゴ海軍
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編成:地中海最強クラスの軍船を保有
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人数:120隻~150隻
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強み:高度な操船技術と、優れた造船能力
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弱み:船員が傭兵で忠誠心が低い
ローマ海軍
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編成:なし
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人数:なし
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強み:なし
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弱み:そもそも海軍持ってない
シチリアを巡る陸戦(前262年〜前256年)
ローマは本格的にシチリア島へ進軍し、都市アグリゲントゥムを包囲、カルタゴ陸軍を破り、都市アグリゲントゥムを占領しました。これによりローマがシチリア内陸部を支配します。一方、カルタゴは沿岸都市や制海権を握りつづけ、補給線を保ちました。この時点では、ローマは陸軍優位、カルタゴは海軍優位という構図が明確でした。
シチリアを巡る海戦(前260年〜前249年)
ローマが初めて海軍を建設し、コルウス(敵の船に橋を架けて乗り込む装置)を発明。これにより海戦でも白兵戦に持ち込むことが可能になりました。これにより、ミュラエ沖海戦、エクノモス海戦などでローマが連勝。ローマ軍はついに北アフリカに上陸、カルタゴ本土に圧力をかけました。しかしアフリカではカルタゴ将軍ハミルカル・バルカの逆襲を受け、ローマ軍は撤退。その後、カルタゴは反撃に転じ、ドレパナ海戦でローマ海軍に大勝。ローマは艦隊を失い、戦争は一時こう着状態になりました。
決戦、アエガテス諸島沖の海戦(紀元前241年)
ローマは、ドレパナ海戦で艦隊を失い、資金不足で艦隊を持たない時期が続いていましたが、民間から資金を集めて艦隊の再建に動きました。カルタゴは将軍ハミルカル・バルカをシチリアに派遣し、ゲリラ戦で抵抗。しかし兵力も資金も限られており、カルタゴは海上優位を保ちつつも、戦局を決めきれずにいました。
紀元前241年、ローマは海軍を再建。船舶も操縦しやすく改良しました。海軍を再建したローマは、20年以上続いた戦争に終止符を打つため、カルタゴ海軍をアエガテス諸島沖で待ち伏せしました。出現したカルタゴ船は、補給物資を積んでおり、動きが鈍くなっていました。これに気付いたローマ海軍は、風上から一気に突撃、カルタゴ海軍は完全に敗北しました。
この敗北でカルタゴは艦隊を失い、海軍の優位性も失いました。
カルタゴ屈辱の降伏
カルタゴは、海軍の優位性も失い、ローマへの降伏を余儀なくされました。結果、重い賠償金を負い、シチリア島も失います。これにより、カルタゴは経済的に大きな打撃を受けることになりました。一方でローマは初の海外領土としてシチリアを獲得し、海軍国家としての道を歩み、西地中海の覇権がカルタゴから、ローマへと移っていくことになります。
しかし、この時、ローマの悪夢と呼ばれる怪物が作られようとしていました。カルタゴの将軍ハミルカル・バルカは、カルタゴ降伏後、ローマへの憎しみを積もらせていました。ハミルカルは、イベリア半島を開拓しに行く前に、息子を神殿へ連れていき「ローマの敵であり続ける」と誓わせました。
その息子こそ、ローマ最大の悪夢と呼ばれるハンニバル・バルカです。

将軍ハミルカル・バルカ


不死鳥のごとく蘇るカルタゴ
カルタゴは、第一次ポエニ戦争や戦後のローマによる過酷な賠償要求などで大きな打撃を受けましたが、商業力と戦略的な外交手腕によって、まさに不死鳥のごとく再び立ち上がることになります。ここでは、その「蘇り」の過程を紹介します。
イベリア半島への進出 ― 新天地の開拓
第一次ポエニ戦争の敗北後、カルタゴはシチリアやサルデーニャなどの重要な拠点を失い、さらにローマに莫大な賠償金を支払う義務を負いました。さらに、傭兵の反乱によって国力は大きく揺らぎましたが、ここからカルタゴの新たな戦略が始まります。それが イベリア半島の開拓です。
将軍ハミルカル・バルカは、カルタゴ本国の疲弊から抜け出すため、豊かな鉱山資源を有するイベリア半島に目を向けました。ここで彼は現地の部族を制圧し、カルタゴに代わる新たな経済的・軍事的基盤を築きました。
商業活動の回復と拡大
カルタゴは地中海西部の拠点(シチリア・サルデーニャ)をローマに奪われた後も、北アフリカ沿岸、リビア、ヌミディア、フェニキア系都市との商業関係を再構築・強化しました。特にカルタゴの農産物・工芸品、染料(紫)・塩・金属製品などの輸出で経済を再活性化。ローマとの直接対立を避けながらも、着実に貿易ネットワークを広げていきました。
農業生産の拡大と効率化
カルタゴはアフリカの乾燥地帯をうまく利用し、水路や貯水施設を整備して灌漑農業を高度に発展させた都市国家でした。敗戦後も、穀物・オリーブ・果物・ブドウなどの農業生産を増やし、食料自給と商業輸出の両方を強化していました。
政の安定化と政体の再調整
第一次ポエニ戦争や傭兵の反乱のあと、カルタゴ本国では評議会やスフェトを中心に、貴族層が国家の統制を強める形で安定化を図りました。ハミルカル・バルカはやや独立的で軍事志向が強い家系でしたが、本国ではあくまで伝統的な政治体制によって、財政再建・秩序維持・外交対応が行われていました。
軍制の改革と防衛体制の再構築
カルタゴは、再び大規模な戦争に備えるために、傭兵軍の編成・訓練・駐屯体制の整備も並行して進められていました。地元のリビア人やヌミディア人との連携も深め、戦力の底上げを図りました。
カルタゴの復讐戦 – 第二次ポエニ戦争
第二次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)は、古代地中海世界で最も壮絶で劇的な戦争の一つです。この戦争は、カルタゴとローマの宿命的な衝突の第2幕として、多くの英雄、戦術、悲劇を生み出しました。カルタゴ側の視点で見れば、それは「復讐」と「誇り」、そして「滅びの序章」ともいえる戦いです。
第二次ポエニ戦争の発端
名将ハミルカル・バルカがイベリア半島に新たな勢力基盤を築きました。息子のハンニバル・バルカはその遺志を継ぎ、カルタゴの再起を目指します。
ローマとカルタゴの間では、イベリアにおける勢力圏の取り決め、エブロ条約が交わされていました。しかし、ローマが、カルタゴの影響下にあった都市サグントゥムに干渉したことにより、ハンニバルがサグントゥムを包囲・陥落させました。ローマはこれを理由にカルタゴに対し宣戦布告します。こうして、第二次ポエニ戦争が始まりました。
カルタゴ将軍ハンニバル・バルカ – ローマの悪夢と呼ばれた男
ハンニバル・バルカは、ローマへの侵攻を計画しました。しかしこの頃、地中海の制海権はローマ海軍が握っていました。また、イベリア半島からイタリア半島につながる海外沿いも、強力なローマ陸軍によって守られており、ローマへの侵入は不可能に見えました。そこでハンニバルは、アルプス山脈を大軍を連れて越えることで、イタリア半島へ侵攻するという前代未聞の作戦を実行します。この奇襲により、ローマ軍は完全に虚を突かれます。
イタリア半島に到着したカルタゴ軍は、アルプスを越える過程で大きく弱体化していましたが、現地の部族ガリア人を仲間に引き入れ、戦力を補填しました。ローマ軍は、イタリア半島に侵入してきたカルタゴ軍を撃退するため、幾たびも討伐軍を派遣しましたが、カルタゴ軍はこれを、ことごとく撃退しました。紀元前218年のトレビア川の戦いでは、ローマ軍を待ち伏せで撃破。紀元前217年のトラシメヌス湖の戦いでは、霧と地形を利用して包囲殲滅。紀元前216年のカンナエの戦いでは天才的な包囲戦術でローマ軍5万人以上を殺害し、ローマ史上最大の敗北を与えました。
ローマ軍はこれらの敗北で、ハンニバル率いるカルタゴ軍に対抗する兵を喪失しました。一方ハンニバル率いるカルタゴ軍は、ガリア人こそ消耗したものの、カルタゴから連れてきた精鋭はほぼ無傷という、ローマにとってはまさに悪夢のような状態でした。
カルタゴ本国、ハンニバルの足を引っ張る
カルタゴ本国は、ハンニバル・バルカの連戦連勝で、ローマを滅ぼすチャンスにも関わらず、これを支援しませんでした。これには政治的分裂・地理的制約・戦略の違いなど、複数の要因が絡み合っていたと言われています。
カルタゴ本国では、親ハンニバル派と和平派が対立していました。カルタゴ本国にはハンニバルを快く思っていない「商業中心の和平派」が存在していました。特に商人や大地主たちは、ローマとの長期戦による貿易の損失や税負担の増加を懸念し、戦争継続に消極的でした。そのため、ハンニバルがカンナエで大勝してイタリア半島で覇権を握ったときですら、カルタゴ本国からの本格的な軍事支援はありませんでした。
他にもカルタゴ本国がハンニバルを支援できなかった理由として、ローマ海軍による海上封鎖もありました。ローマの海軍が地中海を封鎖していたため、第一次ポエニ戦争で海軍力を大きく損失しているカルタゴには、ハンニバルに補給や増援を送ることが非常に困難でした。
また、カルタゴ本国とハンニバルには戦略的な違いがありました。ハンニバルは「イタリア本土でローマを直接屈服させる」ことを狙っていました。一方カルタゴ本国の政治家たちは「イベリア半島の支配を守ること」が重要だと考えていました。結果的に、ハンニバルへの本格支援よりも、ローマに攻め込まれたイベリア方面への防衛を優先しました。
ローマの反撃、英雄スキピオの登場
長年にわたってハンニバルがイタリア半島各地を荒らし、ローマは重大な打撃を受けましたが、ローマ人の粘り強さは衰えませんでした。そして戦局が変わるきっかけとなったのが、若き将軍プブリウス・コルネリウス・スキピオの登場です。スキピオは、ハンニバルを正面から叩かず、ハンニバルの勢力基盤であったイベリア半島を攻撃し、カルタゴからの補給路を断ちました。これにより、ハンニバルはイタリア半島に孤立し、本国からの増援を望めない状態となってしまいました。
次にスキピオは、戦場をイタリア半島から、カルタゴ本国のある北アフリカに移すため、カルタゴ本国への直接攻撃を実施ました。これに焦ったカルタゴ本国は、ハンニバルをイタリア半島から呼び戻すことにしました。これにより、ハンニバルのイタリア半島での孤独な戦いが終了することになるのです。
ザマの戦い、カルタゴとローマ運命の決戦
ハンニバルがカルタゴに帰還すると、ザマ平原にて、ハンニバルとスキピオの両雄がついに激突しました。この戦いこそが、第二次ポエニ戦争の決定的な一戦でした。
ハンニバルは歴戦の勇将として冷静に布陣しましたが、ヌミディア騎兵がローマ側についたことで騎兵戦力に大きな差が生まれていました。さらにスキピオは、カルタゴの戦象に対しても周到に備えており、カルタゴ軍は、象部隊は効果を発揮できずに混乱。結果として、カルタゴ軍は大敗。ハンニバルは辛くも生き延びたものの、ここにカルタゴの敗北は決定的となりました。
カルタゴの降伏と没落
カルタゴが降伏すると、ローマはカルタゴに対して非常に厳しい講和条件を突きつけました。50年にわたって支払う巨額の賠償金。カルタゴ海軍の解体。イベリア半島の割譲。また、カルタゴが戦争を起こすにはローマの許可が必要になりました。これによって、カルタゴは事実上ローマの属国のような立場となり、かつての西地中海最強国はその力を大きく削がれることになりました。

ローマの悪夢ハンニバル:出典Fratelli Alinari – Reddit


カルタゴ、やはり不死鳥のごとく蘇る
カルタゴは第二次ポエニ戦争で敗北し、かつての軍事力と海外領土のほとんどを失いましたが、それでもカルタゴは不死鳥のごとく蘇ります。軍事ではなく経済に注力し、驚異的な経済復興でローマを驚愕させます。その道のりをご紹介します。
農業の徹底的な再編
カルタゴは自国内の耕地を最大限に活用する方針へと舵を切ります。特筆すべきは、農業マニュアル「マゴー農書」の存在です。これはカルタゴの農業指導者でもあったマゴによって編纂されたもので、灌漑技術、作物の輪作、剪定方法、果樹の接ぎ木、肥料の種類とその使用法などが記されています。後にローマ人さえもこの農書をラテン語に翻訳し、参考にしたと伝えられています。
このような技術的蓄積のもと、カルタゴは乾燥した気候を逆手にとって、オリーブやブドウなどの高付加価値作物を中心にした農園経営を再構築。さらに穀物栽培の拡大にも力を入れ、都市の人口増加と交易需要に対応できるだけの自給体制を整えました。
都市インフラの再整備
ザマの戦いで敗北した後、カルタゴ市街は部分的に破壊されていましたが、ローマの監視の目を逃れつつ、着実に都市機能を再建していきました。
中心部には広場(アゴラ)や神殿を再建し、都市機能の再配置を通して商業と手工業に特化した区域を整備。特に港湾周辺には新しい倉庫(ホラエ)や検査場が整備され、税関的機能を果たす施設も備えられました。
また、上下水道においても高度な技術が導入され、市民生活の衛生状態や飲料水の供給が安定。これにより、人口の再定住を後押しする基盤が整いました。
港と貿易の活性化
カルタゴは戦前から海上貿易の拠点であり、特にシチリア、サルディニア、イベリア半島を結ぶ交易路を持っていました。戦後は軍事的制約のため制海権を失いましたが、それでも貿易活動は完全には止まりませんでした。
彼らは主に商人ギルド(商業組合)の力を活用し、ローマに脅威を与えないように見せかけつつ、地中海沿岸諸都市と密接な経済関係を築いていきました。
また、カルタゴ港は二重構造(商業港と軍港)を持っていたという記録もあり、ローマとの戦後条約によって軍港は封鎖されていましたが、その建築的インフラを転用して民間の船の修理や荷役機能を強化したと考えられています。

カルタゴの軍港と商業港:出典Imperium Romanum
職人と労働力の充実
カルタゴは再建期において、都市再建・農地開拓・工業生産のために大量の労働力を必要としました。この労働力は、戦争捕虜から解放された元傭兵、周辺リビア人やヌミディア人、奴隷商人を通じて入手した各地の奴隷
といった多様な人々から構成されていました。
職人の技術水準は非常に高く、特にガラス細工や金属細工はローマ人にとっても魅力的な輸入品であり、ブロンズ製の香炉、金銀の装飾品などが盛んに製作されました。
また、布製品においてはフェニキア系伝統を引き継ぐ染色技術(ティルシアンパープル=紫の染料)を活かした高級衣類が輸出品として重宝されました。
財政の健全化
カルタゴの財政再建を主導したのが、戦後のスフェトに就任したハンニバル・バルカです。彼は武人であるだけでなく、非常に優れた行政官でもありました。彼はスフェトとして、以下のような財政改革を行いました。
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税制の見直し:商人・地主層に対して公平な課税制度を実施
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公共支出の透明化:収支の帳簿を作成・公開し、不正を取り締まった
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対外債務の早期返済:当初50年かかるとされた賠償金の完済を、わずか約30年で達成したとされます
このようなハンニバルの施策によって、カルタゴは一時的とはいえ、ローマにも匹敵するほどの安定した都市財政を手にすることができたのです。

不死鳥カルタゴを恐れたローマ – 第三次ポエニ戦争
何度敗れても不死鳥のごとく蘇るカルタゴにローマは恐れを抱いていました。また、第二次ポエニ戦争にイタリア半島を荒らされた恐怖は強く残っており、ローマ元老院の中には「カルタゴは滅ぶべし」と主張しまくっていた人もいるほどでした。そんな最中勃発したのが、第三次ポエニ戦争です。
第三次ポエニ戦争の発端 – ローマに許可なくヌミディアと交戦
カルタゴは、ローマの友好国であるヌミディア王マシニッサにたびたび領土を侵されていました。ローマに訴えても無視され続けたカルタゴは、ついに独断で軍を動かし、ヌミディアと交戦してしまいます。
これはローマにとって「カルタゴが条約に違反した証拠」でした。実際にはカルタゴは自衛のために動いたに過ぎませんが、ローマはこれを待っていたかのように第三次ポエニ戦争を開始します。
カルタゴの休戦交渉 – ローマの過酷な要求
戦争の発端は、ローマがカルタゴに出した過酷な要求です。全ての武器・軍船の引き渡すこと。そして、首都カルタゴの放棄と、10マイル内陸への移住でした
この要求に対し、カルタゴ市民は「死を選んでも都市を捨てることはできない」と一致団結。これにより、ローマは3年間に及ぶカルタゴ包囲戦を開始しました。
カルタゴ市民決死の抵抗
3年に及ぶ包囲戦の末、ついにローマ軍はカルタゴの防壁に突破口を開けました。カルタゴ市民はすでに飢えに苦しんでおり、まともに戦える状態ではありませんでしたが、家屋を要塞化し、路地に落とし穴、熱湯や油を使った罠などを仕掛け、なだれ込んでくるローマ軍に対し、必死に抵抗をしました。まさに「都市全体が戦場」となったのです。
ローマ軍を率いていたスキピオ・アエミリアヌス(ザマの戦いで活躍したスキピオ・アフリカヌスの孫)は、一軒一軒、建物ごとに制圧していく命令を出し、バリスタや火で建物ごと焼き払いながら進軍します。住民は地下室や神殿に逃げ込み、子どもや老人までが戦いに加わるほど絶望的な状況となりました。

カルタゴの城壁を破壊するローマ兵:出典By Edward Poynter
カルタゴ滅亡
かつて海の女王と謳われた都市、カルタゴ。香と染料が風に乗り、港には商船が並び、アフリカの太陽の下で、赤い土の大地に豊穣が芽吹いたカルタゴは、血と炎に包まれました。
カルタゴの将軍であったハスドルバルは、カルタゴ発祥の地であるビュルサの丘のエシュムン神殿(カルタゴ最大の神殿)に立てこもり、最後の抵抗を図りますが、最終的に降伏し、神殿から出てローマに投降。ところがその直後、彼の妻は夫の降伏を恥じ、2人の子どもとともに神殿に火を放ち、炎の中に身を投げました。
このときローマ軍率いるスキピオは、崩れゆく神殿の前に立ち尽くし、「この光景を見ると、ローマもいつかこのように滅びる運命にあるのではないかと思う。」と涙を流しながら、つぶやいたとされています。

カルタゴの滅亡


カルタゴ滅亡のその後
カルタゴが滅亡した後(紀元前146年)、ローマは徹底的な破壊と制圧を行いました。ここでは、カルタゴ市民や都市がどうなったかの詳細を紹介していきます。
都市カルタゴの徹底破壊
ローマはカルタゴの街を完全に破壊しました。建物は焼かれ、破壊され、廃墟となりました。カルタゴは再建を禁じられ、カルタゴの大地には、二度と作物が育たないように「塩を撒いた」と言われます(※これは象徴的表現で、史実ではない可能性も高いです)。
カルタゴという都市は地図からも完全に消され、カルタゴ滅亡から100年間、かつてカルタゴがあった土地には誰も近づかなかったと言われます。

カルタゴ市民の運命
生き残った約5万人の市民は、全員奴隷として売られました。特に、貴族や将軍クラスは処刑、あるいはローマに連行されて晒し者にされました。女性や子供も容赦なく連れ去られ、家族は引き裂かれました。
ローマは、敗北した都市国家に寛大な処置をすることが常でしたが、ローマを滅亡の寸前まで追い込み、幾度の敗北を経ても、不死鳥のごとく復活するカルタゴを恐れていたこともあり、生き残ったカルタゴ市民は壮絶な運命を迎えることになりました。
皇帝アウグストゥスによる新カルタゴ
カルタゴの廃墟には、のちにローマ皇帝ユリウス・カエサルが再建の意志を示し、アウグストゥスによって正式に「コロニア・ユリア・カルタゴ」として復興されます(紀元前29年ごろ)。
この「新カルタゴ」は後にアフリカ属州の首都となり、その後、キリスト教の一大拠点ともなります。

皇帝アウグストゥス:出典Till Niermann
まとめ
かつて西地中海の大国として繁栄し、海の女王とも謳われたカルタゴ。幾度となくローマに敗れたが、それでも不死鳥のごとく蘇りました。軍事力を封じられても、経済に注力し復活したカルタゴ。しかし、カルタゴの底力を恐れたローマに葬られ、100年もの間、誰も訪れない地となってしまいました。カルタゴの終焉は、単なる国家の終焉ではなく、一つの文明の終焉でした。

コメント
コメント一覧 (1件)
滅亡の後、そのまま放置されたカルタゴ跡地、見てみたかったな。。。