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共和政ローマ(後編)- 元老院の腐敗と共和政ローマの終焉

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共和政ローマの終焉

共和政ローマは紀元前146年にカルタゴとギリシャのコリントスを滅ぼし、地中海の支配者となりました。しかし、その後すぐに問題が起こります。戦争による富と奴隷の流入で、大地主が力を持ち、小さな農民は土地を失って貧しくなりました。都市には仕事のない人があふれ、社会は不安定になります。

こうした不公平をなくそうと改革を行おうとした人たちもいましたが、既得権益層たちに反対され、うまくいきませんでした。その結果、ローマは内乱の時代に入ります。将軍たちは自分の軍隊を持って争い、国全体が混乱していきました。

この中でカエサルという人物が力をつけ、ローマの中心となりますが、彼は暗殺されてしまいます。その後、カエサルの養子オクタウィアヌスが争いに勝ち、紀元前27年に「アウグストゥス」と呼ばれて皇帝となり、共和政ローマは終焉を迎え、ローマは帝政に移行しました。

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目次

ギリシャ世界の征服

ローマがギリシャを制圧するまでには、複数の戦争と長い年月が必要でした。単純な武力制圧ではなく、各地の勢力との複雑な外交や軍事的な駆け引きを経て、最終的に支配が確立されたのです。

第一次マケドニア戦争(紀元前215~205年)

発端

この戦争は、ローマがカルタゴと戦っていた第二次ポエニ戦争の最中に起こりました。ギリシャ北部を支配していたマケドニア王国のフィリッポス5世が、カルタゴのハンニバルと同盟を結び、ローマに対抗しようとしたのがきっかけです。

結果

ローマは直接的な勝利を得られませんでしたが、ギリシャの他の都市国家や勢力と同盟を結び、マケドニアの南下を抑えることに成功しました。これは、後の介入の足がかりとなります。

第二次マケドニア戦争(紀元前200~197年)

発端

ローマは、ギリシャの都市国家(とくにアテネ)からの要請を受け、再びマケドニアとの戦争に突入しました。マケドニアの覇権主義的な動きが脅威とみなされたのです。

結果

この戦争の最大の戦闘は、キノスケファライの戦い(紀元前197年)です。ここで、ローマの将軍ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスがフィリッポス5世を打ち破りました。この勝利により、ローマはマケドニアを大きく弱体化させ、ギリシャの諸都市を「自由」と称して形式上は独立させました。これはローマがギリシャにおいて「解放者」として影響力を持つための巧妙な戦略でした。

第三次マケドニア戦争(紀元前171~168年)

発端

フィリッポス5世の息子ペルセウスが王位に就くと、再びローマへの対抗姿勢を強めたため、ローマは戦争を決意します。

 結果

決定的な戦いは、ピュドナの戦い(紀元前168年)です。ここで、ローマの将軍ルキウス・アエミリウス・パウルスがペルセウスを破り、マケドニア王国を完全に打倒しました。マケドニアは4つの小国家に分割され、事実上ローマの支配下に入りました。

アカイア戦争とコリントスの破壊(紀元前146年)

発端

ローマの支配に反発したギリシャ南部のアカイア同盟が反乱を起こしますが、ローマ軍によりすぐに鎮圧されます。この戦争の象徴的な事件が、コリントスの破壊です。ローマは見せしめとして、栄華を誇ったこの都市を徹底的に破壊し、住民を奴隷としました。

結果

紀元前146年以降、ローマはギリシャ地域を属州「アカエア」として直接支配するようになります。ギリシャの都市国家は形式上ある程度の自治を許されましたが、実質的にはローマの管理下に置かれました。皮肉なことに、ギリシャは軍事的にはローマに征服されましたが、文化的にはギリシャの思想や芸術がローマに多大な影響を与えることになります。

属州アッカイア – 出典Milenioscuro

征服者ローマを、征服したギリシャ文化

ギリシャは、紀元前5世紀(ローマが共和政を導入し始めた頃)、すでに哲学・芸術・建築・文学・科学など多くの分野で世界最高レベルの文化を持っていました。一方ローマは元々、法律、軍事、土木建築などに強みを持つ、実用主義の文化で、美術や哲学、抽象的な思想にはあまり力を入れていませんでした。そのため、ギリシャ文化の「精神的・芸術的な深さ」がローマにとって非常に魅力的だったのです。いわば、足りない部分を補うようにギリシャ文化を取り入れていきました。結果、ローマの文化はギリシャ文化に影響(征服)されていくことになります。

ローマ文学のギリシャ化

ローマのギリシャ地域征服後、ローマの貴族階級や政治家たちは、教養を身につける手段としてギリシャ文化を学ぶようになります。子どもたちはギリシャ語を学び、ギリシャ哲学や文学を学習、教師や家庭教師には、ギリシャ人奴隷や自由人が多く採用されました。例えば、キケロ(ローマの名演説家)はプラトン哲学に深く影響を受けており、ギリシャの理論をローマの文脈に応用しました。

建造物や宗教のギリシャ化

ローマのギリシャ地域征服後、ローマはギリシャの彫刻や絵画、建造物の美しさに圧倒され、ローマの神殿や建築にギリシャ様式(ドーリア式、イオニア式など)を採用するようになります。

ローマ神話も、ギリシャ神話に出てくる神々の名前を、ローマの神々の名前と置き換えることで作成しました(例:ゼウス→ユピテル)。

このようにギリシャ文化をローマ風にアレンジするという形で、ギリシャ文化とローマ文化の融合が進みました。

ローマの詩人ホラティウスは、この現象を次のように表現しました:「征服されたギリシャは、野蛮な勝者を征服し、芸術を野暮なラティウムに持ち込んだ。(Graecia capta ferum victorem cepit et artes intulit agresti Latio.)」

ギリシャ・アテナイの学堂 – 出典ラファエロ・サンティ

同盟市戦争 – 新国家イタリアの発足

紀元前91年〜紀元前88年にかけて、イタリア半島のローマ同盟都市が、ローマに反旗を翻して起こした戦争です。目的は、同盟都市の市民が、ローマ市民と同等の権利(市民権)を得られるようにすることでした。

同盟市戦争の発端

当時、イタリア半島の多くの都市は、ローマと同盟関係にありました。これらの都市は、戦争のたびに兵士や資金を提供してきましたが、政治的権利(市民権)を与えられていませんでした。

ローマの戦争では命をかけて戦っているのに発言権がない、税金や兵役の義務はあるのに選挙権も立候補権もない、戦後の恩恵(分配や栄誉)はローマ市民だけが得ているなど、同盟都市の市民には不満が蓄積していました。こうした不満を代弁していたのが、当時の護民官マルクス・リウィウス・ドルススでした。

彼は同盟市に市民権を与える法案を提案しましたが、ローマの保守派がこれに反対し、最終的にドルススは暗殺されます。これが同盟市側の怒りに火をつけ、戦争が始まりました。

同盟市戦争の経過(紀元前91〜88年)

反乱は特に中部・南部イタリア半島で激しく、同盟市は「イタリア国(Italia)」という新国家を名乗り、独自の元老院や執政官を置いてローマに対抗しました。当初、彼らは大きな戦力を持ち、ローマ軍を苦しめました。しかし、ローマは徐々に巻き返し、戦術的にも戦力的にも優位に立ちます。そこでローマは、軍事で勝とうとするのではなく、懐柔策を取り始めます。

ローマは戦争を早く終わらせるため、途中で方針を転換し、「戦争をやめれば市民権を与える」という内容の法を制定します。この政策により、多くの都市が戦争をやめてローマに従いました。紀元前88年ごろ、戦争は終結しました。

同盟市戦争の結果

この戦争の結果、イタリア半島のほとんどの自由民にローマ市民権が与えられることになりました。ローマ市民権の拡大で、同盟市出身者もローマ市民となり、軍や政治に参加できるようになります。これにより、ローマ市中心の国家から、イタリア半島全体を基盤とする国家へと変化していきました。

「イタリア(Italia)」という名称の起源は、ギリシャ語の「イタリア(Ἰταλία)」にさかのぼります。この言葉はもともと、イタリア半島の南部(現在のカラブリアやカンパニア周辺)を指す地域名でした。

ITALIAと刻まれてた新国家イタリアが発行したコイン – 出典Classical Numismatic Group, Inc

共和政ローマ崩壊の始まり:農民の没落と貴族の腐敗

カルタゴの滅亡により、ローマが地中海の覇者になり、ローマは広大な地域を征服することになりますが、それにより、大量の奴隷が流入し、小規模農民が土地を失うことになります。貧富の差が拡大し、都市に貧民が増加しました。元老院は利権まみれ、政治腐敗が進行。このような事態を正そうとする改革派と、既得権益層で対立が発生しました。

護民官グラックス兄弟による貧民救済活動

紀元前133年、兄のティベリウス・グラックスは護民官に選ばれました。彼は「農地法(アグラリア法)」を提出し、国有地を貧しい市民に再分配しようとしました。これは、無産市民を救うと同時に、軍の担い手を増やす狙いもありました。

しかし、この改革は元老院の大地主層の利益を直撃するものであったため、強い反発を招きます。ティベリウスは元老院の抵抗を乗り越えるため、強引な手法で法を通そうとします。護民官は神聖不可避なものであり、任期中は触れることすら許されませんでした。しかし元老院は、ティベリウスが王になろうしていると難癖をつけ、元老院広場(フォルム)に居たティベリウスを、集団で殴り殺してしまいます。遺体はティヴェレ川に投げ捨てられました。

兄の死から約10年後の紀元前123年、弟のガイウス・グラックスが護民官に就任します。ガイウスは兄の政策を引き継ぎ、さらに広範な改革を進めましたが、これらもやはり既得権益層の強い反対を受け、混乱の末、ガイウスは支持を失い、最終的には逃亡中に自死したとされています。

この事件は共和政ローマの終焉を悟らせる出来事です。

グラックス兄弟の死は、共和政ローマにとって「平和的改革の可能性が潰えた瞬間」でした。そこからは暴力の連鎖と内乱が続き、やがて軍人たちが実権を握る時代となります。

グラックス兄弟の彫刻 – 出典ウジェーヌ・ギヨーム

スッラの独裁 – 史上初、軍隊でローマを制圧する

紀元前83〜82年、ローマ史上最初の大きな内戦が発生します。それが、軍人ガイウス・マリウスとルキウス・スッラによる権力争いです。マリウスは平民出身の軍人で、兵制改革を行って無産市民を兵士として受け入れ、兵士が将軍個人に忠誠を誓うような仕組みを作りました。

一方スッラは、伝統的な元老院の権威を守ろうとした保守派で、マリウスと対立し、ついにはローマ市を軍隊で制圧するという前代未聞の事態が起こります。これは、「軍人が軍隊を使って政治を乗っ取る」ローマ史上初の出来事でした。

スッラは一時的に独裁官となり、多くの政敵を「プロスクリプティオ(公敵リスト)」に載せて処刑しました。絶大な権力を持ったスッラでしたが、政敵を一通り粛清すると、独裁官を辞任し、ナポリ近郊の田舎でその生涯を終えます。このスッラの時代を通じて、共和政ローマの政治文化は変質しました。

スッラは自分の墓に、次のような言葉を刻ませたといわれています:

「わたしを敵にまわした者のことを、誰ひとりとして後悔しなかった者はいない」

スッラの彫刻

スパルタクスの奴隷反乱

紀元前73年から紀元前71年にかけてローマを震撼させた、史上最大の奴隷反乱です。ローマでは、戦争によって多くの奴隷が各地から連れてこられ、特にラティフンディア(大農園)で酷使されていました。奴隷は法的には「モノ」とされ、過酷な労働と虐待が当たり前の時代です。中でも剣闘士(グラディアトル)として養成される者たちは、見世物として戦わされ、命を落とすことも多く、日常的に死と隣り合わせの状況でした。そんな中、元ローマ軍の兵士であり、剣闘士にされていたトラキア人だったスパルタクスは、ほかの剣闘士たちと共に反乱を起こしました。

スパルタクスの奴隷反乱の発端

紀元前73年、南イタリアのカプアにある剣闘士養成所から、スパルタクスと70〜80人の剣闘士たちが脱走し、周囲の奴隷たちを集めながら、武器を奪って山岳地帯に立てこもり反乱が開始しました。

奴隷反乱の流れ

ローマは最初、小規模な軍隊しか派遣しませんでしたが、スパルタクスは戦術に優れ、連戦連勝を重ねます。
一時は反乱軍が数万人規模(推定6〜12万人)にまで兵力が膨れ上がったとされます。彼らは当初、イタリア半島を北上して脱出するつもりだったと考えられています(アルプス越えをして故郷へ戻る計画)。しかし内部で意見が割れ、南下して略奪を続ける派と分裂します。

ローマは最終的に、有力な政治家・将軍であるマルクス・リキニウス・クラッススを指揮官に任命し、大軍を派遣します。クラッススは徹底した規律と残虐な処罰を行い、ローマ軍の引き締めを図りました。スパルタクス軍は再び北上を試みましたが、クラッスス率いるローマ軍に包囲され、最終的にルカニア地方(南イタリア)で壊滅します。

スパルタクス本人は戦死しましたが、遺体は確認されませんでした。クラッススはその後、処刑した奴隷6000人をアッピア街道に磔にしたとされています。

奴隷反乱の結果

スパルタクスの反乱が終わったあとも、ローマの奴隷制度そのものは続きましたが、支配階級に「奴隷が反乱を起こせば、国家全体が揺らぐ」という強い危機感が植えつけました。これ以降、奴隷を大量に集団で使うラティフンディア(大農園)経営にも、ある程度の制限や見直しが入り始めますが、制度を直接変えることはありませんでした。この反乱により、共和政ローマが経済的・社会的に限界に近づいていたことが誰の目から見ても明らかになりました。

スパルタクスの最期 – 出典ヘルマン・フォーゲル

クラッススとポンペイウスの台頭 – 歪んだ共和政の修復

スパルタクスの反乱を鎮圧したことで、クラッススは名声と軍事的威信を得ました。同じ時期、東方やヒスパニアで戦っていたグナエウス・ポンペイウスも勝利をおさめてローマに帰還しており、彼もまた「ローマの英雄」として歓迎されます。この二人は、反乱後の治安の回復と名誉をめぐって張り合う形になりました。

この二人はライバル関係でしたが、どちらも執政官(コンスル)の地位を目指していたため、互いに協力せざるを得ませんでした。紀元前70年、クラッススとポンペイウスは共にコンスルに就任します。ポンペイウスは正規の政歴(キュルスス・ホノルム)を踏まずに執政官に就任しました。これは非常に異例なことです。

執政官に就任したクラッススとポンペイウスは、スッラの改革(元老院の権力強化)によって歪んだ体制を修復する為、スッラが弱体化させた護民官の権限を回復、民衆の支持を得るための穀物配給政策の強化などを行いました。

共和政ローマは、秩序と法を重視する社会で、特例などは認めない傾向にありましたが、よりにもよって、執政官という大きな権限を持つ官職を、特例で任命していることからも、共和政ローマの終焉が見えます。

クラッススの彫刻 – 出典Diagram Lajard

三頭政治(トリウンウィラートゥス)- 英雄カエサルの登場

ポンペイウスは、海賊討伐(紀元前67年)や東方戦役(ポントス王ミトリダテス討伐)で圧倒的な勝利を収め、彼の支持はどんどん大きくなっていきました。一方クラッススは、大きな富を築いていましたが、ポンペイウスのように大きな軍功は多くなく、市民からの支持も、ポンペイウスに劣っていました。そこでクラッススは政治的に劣っているところを挽回しようとカエサルに接近します。その後、クラッスス・ポンペイウス・カエサル、三者の利害関係が一致し、紀元前60年に「第一回三頭政治(トリウンウィラートゥス)」という非公式な権力同盟が成立するのです。

カエサルという男について

ガイウス・ユリウス・カエサルは、名門ユリウス氏族の出身ですが、家は貧しく、政治資金に乏しい若者でした。しかし、カリスマ性と雄弁術に優れ、市民に対する寛大な姿勢で民衆の支持を集めていました。また彼には敵味方を問わず魅了する、政治的手腕がありました。つまり、金はないが、大衆人気と将来性は抜群という人物だったのです。

ユリウス家は、もともとアルバ・ロンガという都市国家の貴族でしたが、アルバ・ロンガが王政ローマに滅亡させられた時に、ローマへと移住してきたと言われています。

カエサルの立像 – 出典ニコラ・クストゥー

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クラッススとカエサルの接近

カエサルの弱点は資金力の無さでした。選挙活動・パフォーマンス・饗宴などには巨額の費用が必要だったので、クラッススの支援によって、護民官、法務官、コンスルと順調に出世していきます。一方、クラッススは資金力は持っていましたが、ポンペイウスのようなカリスマや戦績がなく、民衆の支持が薄いという状態でした。そこで、カエサルとの関係を通じて、ポピュラレス(民衆派)とのパイプを持ち、政治的影響力を拡大して行きました。

ポンペイウス・クラッスス・カエサルによる三頭政治

紀元前60年、クラッススとカエサルの関係に、もう一人の巨人・ポンペイウスが加わります。ポンペイウスは、東方遠征の勝利にもかかわらず、元老院から冷遇されていました。元老院は彼の功績を恐れ、退役兵への土地分配や政策実現を妨害していたのです。

ここで、カエサルが調整役として両者を結びつけ、三人で政治同盟を結ぶという案を持ちかけます。クラッススは資金力を、ポンペイウスは軍事力と人気を、カエサルは政略とバランス感覚を持ち寄り、第一回三頭政治(トリウンウィラートゥス)が成立します。

これはローマの共和制を建前上は残しながら、実質的には三人の個人権力者による支配体制となり、帝政への道を開いていきました。

三頭政治の崩壊

クラッススとカエサルの関係は、この三頭政治を軸に強化され、クラッススはカエサルがコンスルに選ばれるよう支援し、その後カエサルのガリア総督職獲得にも力を貸しました。カエサルがガリア戦争で名声を高めていく間、クラッススはパルティアとの戦いへと向かいます。しかし、クラッススはカルラエの戦い(紀元前53年)で戦死し、三頭政治はバランスを失って崩壊の道へと進むのです。

カエサルとポンペイウスの対立

ユリアの死(紀元前54年)

カエサルとポンペイウスの間には、個人的な信頼関係もありました。カエサルの娘ユリアがポンペイウスと結婚しており、親族関係を通じて政治的同盟を補強していました。しかし、ユリアは紀元前54年に死去し、両者の私的絆も断たれます。しかもポンペイウスは後に、カエサルの政敵と結びついた人と再婚し、両社の対立は深まる一方となります。

カエサルの成功とポンペイウスの警戒

カエサルはガリア戦争(紀元前58〜51年)で連戦連勝を重ね、莫大な富と忠実な軍隊を得て、“国民的英雄”としてローマにおける圧倒的な存在となっていきます。一方、ポンペイウスはローマ市内に留まり、元老院との関係を深めていきます。そして紀元前52年、カティリナの混乱や政情不安を背景に、ポンペイウスは「唯一の執政官」に任命され、事実上のローマ市内の独裁者となります。唯一の執政官になったポンペイウスは、次第にカエサルを警戒・敵視するようになります。

共和政ローマにおいて、王の代わりを務める執政官は必ず2名選出されることが絶対でした。これは「一人に絶対的な権力を持たせない」という、共和政ローマのモットーから来るものでした。唯一の執政官が生まれている時点で、ローマの共和政は完全に崩れていたと言えます。

ポンペイウスの彫刻 – 出典JW1805

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カエサルの歴史的な一歩 – 賽は投げられた

元老院とポンペイウスは、カエサルにガリア総督職の辞任とローマへの帰還を命じます。これを「武装解除せずにローマに帰るなら、反逆者とみなす」としたのです。カエサルは、自らの身の安全と名誉が守られないことを確信し、これに従いません。そして、紀元前49年、歴史的な一歩を踏み出します。

カエサルのガイア総督任期終了と告発の危機

カエサルはガリア戦争(紀元前58〜51年)で大勝し、ローマ市民から大人気の将軍になっていました。しかし元老院とポンペイウスは、カエサルの力を恐れていました。カエサルの総督任期が終了すると、彼は民間人となり、不正の追及を受けることになります。元老院はカエサルに「軍を解いてローマに帰還せよ」と命令しましたが、カエサルは、政敵によって裁判にかけられ、命すら危ないと考えていました。

最後通牒と交渉決裂

カエサルは何度も妥協案を提示しました。「軍のうち1個軍団だけ保持してローマに近づく」「ポンペイウスも軍を解けば、自分も解く」など。しかし元老院は受け入れず、ついには、カエサルに対して「敵(hostis)」の宣告を出します。つまりカエサルを「ローマの敵とみなす」と宣言したのです。

カエサルが軍を率いてルビコン川を越える

紀元前49年1月10日(ユリウス暦で1月)、カエサルは第13軍団(Legio XIII Gemina)を率いて、ルビコン川を渡りました。この行動は、ローマ法において明確な内乱(bellum civile)の開始を意味します。

ルビコン川(Rubico)は、イタリア半島北部、現在のエミリア=ロマーニャ州にある小さな川です。しかし、この川はローマ本土(イタリア半島)と属州ガリア・キサルピナの境界線であり、現役の総督が軍を率いてこの川を越えることは、ローマ法上、国家への反逆行為とされていました。

カエサルが軍を率いてルビゴン川を渡る際に、彼が発したとされる言葉が「Alea iacta est(賽は投げられた)」この言葉は、「もはや後戻りできない」「運命の決断をした」という意味で、後世においても「重大な一線を越える行為」の象徴となりました。

ルビゴン川 – 出典

ポンペイウスと元老院派がローマを去る

カエサルの電撃侵攻に、ローマ市内は大混乱に陥ります。ポンペイウスと元老院派は、防衛の準備も整っておらず、ローマから退却し、南イタリアへ逃れます。このときポンペイウスは、「カエサルに従う者はローマの敵」と宣言しますが、市民の多くはカエサルを歓迎し、ローマ市内はほぼ無血でカエサルに制圧されました。

これは、ローマの軍人が法を破り、軍を持って政治を制する時代が始まったことを示します。また共和政ローマが、これまで貫いてきた、秩序と法の厳守、そして一人の人間に絶対的な権力を持たせないというモットーの崩壊を市民が受け入れたということでもあります。

これは、共和政ローマの終焉が目前に迫っている、または既に崩壊していることを意味します。

カエサルとポンペイウスの決戦 – ファルサルスの戦い(紀元前48年)

ポンペイウスと元老院はローマを放棄し、東方(ギリシャ、マケドニア)へと退却。一方カエサルは西方(イタリア、ヒスパニア、ガリア)を素早く掌握します。ポンペイウスは東方属州から強力な軍資金と兵力を集め、ギリシャのファルサルス付近(現・テッサリア地方)で迎撃の体制を整えます。

項目 カエサル軍 ポンペイウス軍
約2万2千人の重装歩兵 + 騎兵1千 約4万5千人の重装歩兵 + 騎兵7千
経験 ガリア戦争を経た歴戦の兵 新兵も多いが数と装備に勝る
指揮官 カエサル ポンペイウス + 元老院将軍たち

ファルサルスの戦いの発端

数と装備で上回っていたポンペイウスは「正面決戦を避け、補給戦でカエサルを疲弊させる」という戦略を主張していました。しかし、元老院派の将軍たち(特に強硬派)が「即決戦」を求めたため、しぶしぶファルサルスで野戦を受けることになります。

ファルサルスの戦いの流れ

ポンペイウス軍は、左翼に大量の騎兵を集中させ、騎兵突破からカエサル軍の側面を崩す戦術をとりました。一方、カエサル軍は右翼に予備部隊を置き、この突破を予期してポンペイウス騎兵への反撃準備をしていました。

ポンペイウス軍の騎兵が一気に攻め込みますが、カエサルは隠していた軽装兵・投槍兵を前に出して奇襲的に攻撃。騎兵は混乱して後退し、逆にカエサルの側面部隊がポンペイウスの側面を包囲する形になります。さらに、カエサルはこの混乱に乗じて中央突破を図り、ポンペイウス軍の陣形は崩壊。

ポンペイウスは戦場から逃亡し、軍は瓦解します。

ファルサルスの戦いの結果

ポンペイウスは敗走し、まず海路でエーゲ海、次いでキプロス、そしてエジプトへ逃れます。ポンペイウスには、エジプト王家(プトレマイオス朝)を支援した実績があったため、「安全と庇護が得られる」と考えたのです。

ポンペイウスをエジプトで迎えたのは、かつて彼に仕えていたローマ人百人隊長ルキウス・セプティミウスと、エジプトの将軍アキラスたちでした。ポンペイウスは小舟に乗って岸に近づきましたが、突然、セプティミウスたちに襲われ、背後から刺殺されます。その場にいた妻コルネリアは、船上からその光景を目撃し、絶望の中で涙を流したといわれています。

ポンペイウスの遺体は浜辺に打ち捨てられ、首を切り取られてカエサルへの「贈り物」として送られました。後に体は火葬され、かろうじて忠実な従者によって簡素な墓に葬られたと伝えられます。

これによりカエサルは唯一の権力者としてローマに君臨することになります。

エジプトに到着したカエサルは、ポンペイウスの首と印章を差し出されました。カエサルは深く悲しみ、涙を流しながら、彼の暗殺を「ローマ人への侮辱」として激しく非難しました。彼はポンペイウスの首を丁重に埋葬させ、首謀者たちを後に処刑します。これは、カエサルが「復讐に基づく政治ではなく、秩序と威厳を守る支配者である」というイメージを演出した行動でもありました。

終身独裁官カエサル誕生

ファルサルスの勝利とポンペイウスの死を経て、カエサルはローマの全権を握ります。しかし、彼は「王」を名乗ることは避け、「独裁官(ディクタトル)」の名で権力を正当化しました。

最初は期間限定の独裁官でしたが、紀元前46年に10年任期の独裁官に就任、紀元前44年には、ついに終身独裁官(Dictator Perpetuo)」の称号を得ます。

他にもカエサルは「最高司令官(軍事的支配)」「民衆の護民官権限(民会支配)」「国家祭祀長(宗教的支配)」の称号を得て、彼は事実上、軍事・政治・宗教すべての頂点に立つ存在となりました。

これは、共和政ローマの原則(権力の分散・任期制)を完全に破壊するもので、実質的な「君主制」でした。

ローマ市民の反応:カエサルは英雄か、王か

カエサルはガリア戦争や内戦での寛大な処置もあり、多くの民衆からは英雄として熱烈に支持されていました。しかし、いくら共和政が瓦解していたとは言え、依然として「王政の復活」を恐れる空気は、ローマ社会に根強くありました。かつてローマはエトルリア王を追放して共和政を築いたという建国神話があったためです。

ローマの建国伝説に関わる祭り、ルペルカリア祭にて、カエサルの忠臣であるマルクス・アントニウスが、カエサルに王冠を授けました。しかしカエサルはこれを拒否しました。カエサルは二度王冠を授けられましたが、二度拒否し、最終的には、王冠を神殿(ユピテル神殿)に奉納したとされています。

カエサルが王冠を拒否するたびに、群衆は歓声を上げたと言われており、ここから依然としてローマ社会に王という存在への反発が根強く残っていることが分かります。

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英雄カエサルの暗殺 – ブルータス、お前もか。

カエサルは「終身独裁官(dictator perpetuo)」に就任し、元老院の上に立つ存在となっていました。多くの元老院議員は、彼の権力がもはや王に限りなく近いと感じ、「共和政が滅びる」という危機感を持つようになります。その中心となったのが、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスと、カエサルの息子のような存在であったマルクス・ユニウス・ブルータスです。

ブルータスの苦悩:義務感と愛情の葛藤

ブルータスは、名門ユニウス家の出身で、ローマ共和政の理念を重んじる哲学的で誠実な人物として知られていました。父は早くに亡くなり、母セルウィリアは、かつてカエサルの愛人だったという説もあります。カエサルはブルータスを「実の子のように可愛がっていた」と言われています。

カッシウスたちがブルータスをカエサル暗殺の仲間に引き入れたのは、ブルータスの名声と道徳性が、暗殺に正当性を与えると考えたからです。ブルータスは長い間悩みます。恩人であり父のようなカエサルを殺すことへの罪悪感。しかし同時に「ローマが王政に戻るのを防ぐ義務がある」という理念に突き動かされます。

最終的にブルータスは決断し、「ローマ市民の自由を守るため」という正義の名のもと、カエサル暗殺に加わりました。

カエサル暗殺の計画と実行:イドゥスの日の惨劇

約60人の元老院議員が共謀し、「ローマを専制から解放するため」という大義名分のもと、暗殺計画が練られました。決行日は、紀元前44年3月15日(ローマ暦イドゥスの日)。場所は、ポンペイウス劇場の元老院会場となりました。

当日、カエサルの周囲には「今日は危ない」「出席するな」という予言や忠告がありました。実際、カエサルの妻カルプルニアも悪夢を見て止めようとします。しかし、カエサルは気にせず出席。議場に入ると、ブルータスをはじめとする暗殺者達が近づき、「ある人物の恩赦を願う」という名目でカエサルを囲みます。

突如、暗殺集団の一人、ティリウス・キンナが、カエサルのトーガを引っ張り、それが合図となって、暗殺集団が短剣でカエサルを刺しました。カエサルは叫び声を上げて抵抗しますが、最終的に23箇所を刺され、その場で崩れ落ちます。

最期、暗殺集団の中に、ブルータスの姿を見たカエサルは、あの有名な言葉を口にしたとされます。「ブルータス、お前もか(Et tu, Brute)」

カエサル暗殺 – 出典Heinrich Füger

カエサル暗殺に対する民衆の反応

カエサルが倒れた直後、議場は騒然となり、暗殺者たちは「われらは王を討ったのだ!共和政の守護者である!」と叫びました。しかし、民衆の反応は冷ややかで、むしろ混乱と不安が広がります。暗殺者たちは、ブルータスが「祖国の自由のために剣を抜いた」と説得しようとしますが、市民たちは圧倒的にカエサル支持者が多かったのです。

カエサルの忠臣マルクス・アントニウスがカエサルの葬儀で行った有名な演説が、民衆の怒りに火をつけます。「ブルータスは立派な男である。だが、カエサルは王になどなろうとしていなかった。遺言を見よ!カエサルは市民に財産を残していた!」

アントニウスがカエサルの遺言を公開すると、そこには「各市民にお金を分配」「公園などをローマ市民に遺贈」「息子のように思っていた民衆への配慮」が記されていました。これを見た民衆は大激怒。暗殺者たちは「自由の守護者」ではなく「裏切り者」とみなされ、暴動が発生しました。

初代皇帝アウグストゥスの誕生 – 共和政ローマの終焉

オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)はローマ初の「皇帝」となりましたが、それは一夜にして実現したわけではなく、内戦と政治的駆け引きを経て、慎重かつ巧妙に、共和政の終焉を悟られないよう実現された帝政への移行でした。

オクタウィアヌスとは

ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスの血統は貴族ではなく騎士階級(エクィテス)出身でした。彼はカエサルに目をかけられ、遺言により養子に指名されたことで、カエサル名を継ぐ「カエサル家」の人間になりました。これにより彼は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス」となり、カエサルの政治的遺産を引き継ぎます。

第二回三頭政治とフィリッピの戦い(紀元前43〜42年)

オクタウィウスは、カエサルの死後、アントニウスとレピドゥスとともに「第二回三頭政治」を結成し、権力を三分紀元前42年、フィリッピの戦いで、カエサルを暗殺したブルータスとカッシウスを打倒しました。これにより、カエサル派 vs 共和派の内戦は終結しましたが、三頭の間に亀裂が入り始めました。

アントニウスを倒しローマの支配者に(紀元前30年)

第二回三頭政治の一人、アントニウスは、エジプトでクレオパトラと同盟・恋愛関係に入り、ローマ貴族層の反感を買いました。オクタウィアヌスはこれを利用し「アントニウスはエジプト女王に魂を売った裏切り者だ!」と宣伝戦を展開。紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍を撃破。翌年アントニウスとクレオパトラはエジプトで自死し、オクタウィアヌスが地中海世界の唯一の支配者となりました。

オクタウィアヌスの権力返上宣言(紀元前30〜28年)

オクタウィアヌスは、カエサルのように急激に権力を集中することは避けました。当時オクタウィアヌスは、カエサル暗殺後の混乱を収めるため、すでに軍の指揮権、属州の統治権、政治的な主導権など、ほぼ無制限に近い権力を握っていました。しかし、これはあくまで「内乱の終結と秩序回復のための非常時の措置」という建前だったのです。

ローマ社会が「独裁」「王政」を忌避していることを知っていたオクタウィアヌスは、「私は今、ローマに平和をもたらしました。ゆえに、すべての非常時の権限を元老院と市民に返上します。」と主張し、持っていた彼の権力を「返還」しようとしました。

元老院、オクタウィアヌスの権力返上を拒否(紀元前27年)

オクタウィアヌスの「私、普通の市民に戻ります」宣言を聞いた元老院は、驚きと共に感銘を受け、「国家の安定のために、あなたに一定の権力を保持してほしい」「あなたはローマの守護者である」と主張し、オクタウィアヌスに、「アウグストゥス」の称号と「全属州の軍司令権」「護民官権限」を与えました。

これは実のところ、もともと持っていた権力を保持した形になっていますが、あえて一度返上することで、合法的に再付与された形にしたのです。この演出により、オクタウィアヌスは「独裁者ではない第一市民(プリンケプス)」として、共和政の仮面をかぶった帝政ローマの初代皇帝となったのです。

表面上では共和政を維持していましたが、ここに共和政ローマと呼ばれる時代は終焉を迎え、新たに帝政ローマと呼ばれる時代が始まりました。

皇帝アウグストゥス:出典Till Niermann

アウグストゥスの晩年と死

アウグストゥスは、紀元前27年〜紀元14年の約41年間、ローマに君臨し続けました。彼の権力は絶大でしたが、あくまで「第一市民」として、多くの制度改革(行政・税制・軍制・属州管理・宗教復興など)を行い、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の礎を築きましたが、晩年は後継者問題に悩まされます。息子のように育てた若き後継者たちは、相次いで病死・事故死し、最終的に継子ティベリウスに後を継がせることになりました。

紀元前14年、アウグストゥスは、75歳でその激動の人生に幕を下ろしました。死去の地は、ナポリ近郊のナルドゥリア(現ノーラ)です。最後の言葉(伝承)は「私は芝居をうまく演じきっただろうか」。

アウグストゥスは死後すぐに、元老院によって「神アウグストゥス(Divus Augustus)」として神格化され、以後の皇帝は彼を「神の子」として政治的正統性を得るようになりました。

 

    まとめ

    かつて王政を打倒し始まった共和政ローマは、市民の自由と法を大切にし、多くの人が政治に関わる仕組みを誇りとしていました。しかし、戦争で得た富が一部の貴族に集中し、貧富の差が広がると、政治は理想よりも利権をめぐる争いの場へと変わっていきます。多くの偉人が腐敗した共和政を正そうと戦い、そして悲惨な最後を迎えました。それらの意思を引き継ぐようにオクタウィアヌスが現れ、ローマ第一市民アウグストゥスとして、ローマに平和をもたらたしました。しかしそれは事実上の共和政ローマの終焉であり、ローマは帝政へと移行しくことになります。

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