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カルタゴ – 政治制度と歴史解説、海の女王と謳われた、共和政ローマ最大の宿敵

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カルタゴとは

カルタゴは、現在のチュニジアにあたる場所に存在していた古代都市国家で、紀元前9世紀ごろにフェニキア人によって建設されたと伝えられています。カルタゴは豊かな港と商業によって栄え、地中海交易を支配するほどの影響力を持っていました。また、農業技術にも優れており、周辺地域への影響力を拡大していったことで、やがてシチリア島やイベリア半島(現在のスペイン)などにも拠点を築いていきました。

カルタゴは、海の女王と謳われ、西地中海最強国として繁栄しましたが、同じく地中海の覇権を狙う共和政ローマに敗北し、滅亡しました。今回は、そんなカルタゴの政治制度や歴史を紹介していきます。

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目次

カルタゴの創始者 – エリッサ姫(ディドー女王)

エリッサ(後のディドー女王)は、古代フェニキアの都市国家ティルスの姫であり、伝説によれば北アフリカに都市カルタゴを建設した初代女王とされています。時代は紀元前9世紀頃。エリッサは王位継承をめぐる政変から故国を逃れ、一団の支持者と共に地中海を西へ航海しました。本記事では、史実を重視しながらも、神話的要素を補足として織り交ぜ、カルタゴ建国までの経緯をたどります。

エリッサ姫、ティルス脱出を決意(紀元前825年頃)

ティルスではエリッサの父王が亡くなった後、弟のピュグマリオンとエリッサが共同統治者となるよう遺言されました。しかし幼いピュグマリオンは王権を独占しようとし、姉の夫であり神官でもあったシュカイオス(またはアケルバス)を財宝目当てに殺害してしまいます。

エリッサは命の危険を感じ、父の死後も宮廷に仕えていた忠臣たちと共に脱出の計画を練りました。彼女は弟に「夫の財産を海に投げ捨てて弔いたい」と申し出、実際には砂の詰まった袋を海へ投げることで財宝は失われたと信じ込ませました。その一方で、実際の財宝や支持者を密かに船に乗せ、エリッサはティルスを脱出したのです。

エリッサ姫の航海と旅路

ティルスを後にしたエリッサは、信頼する廷臣たちや有力貴族、財宝を伴って地中海を西へ向かいます。途中、キプロス島に立ち寄りました。

そこには豊穣と性愛の女神アスタルテーの神殿があり、神殿に仕えるおよそ80人の若い娘たち(いわば聖女・巫女的存在)を神官の承諾を得て引き取りました。

エリッサはティルスから随行してきた男性の開拓者たちに、これらの女性を嫁がせたと伝えられています。彼女たちは後に新天地で住民の基盤を形成する女性たちとして役割を果たします。

エリッサの船団は地中海沿岸をさらに西へ進み、最終的にアフリカ北岸、現在のチュニジア沿岸部へとたどり着きました。そこには既に古いフェニキア人の植民市であるウティカなどが存在しており、エリッサはこの地で新しい都市の建設を目指します。

エリッサ姫によるカルタゴ建設、牛の皮の伝説(紀元前814年)

紀元前814年頃、北アフリカ(現在のチュニジア)に上陸したエリッサは、現地のリビュア人の首長イアルバースと交渉を行い、「一頭の牛の皮で覆えるだけの土地」を求めます。イアルバースがそれを了承すると、エリッサは牛の皮を細く切り裂き、長い帯状にして地面に広げました。そしてその皮で囲める最大の面積を確保し、その地を「ビュルサの丘」と名付けて砦を築いたとされています。

この伝説は「機転の象徴」として後世に語り継がれ、カルタゴ建国神話の中核となっています。なお、ビュルサという名前はギリシア語で「牛皮」を意味する言葉に由来するとされますが、フェニキア語で「砦・要塞」を意味する語が元になっている可能性もあります。

新たな居住地には周辺のフェニキア人や先住民も加わり、街は拡大していきます。この新都市はやがて「カルタゴ(Qart-ḥadašt)」と呼ばれるようになります。これはフェニキア語で「新しい都市」を意味し、まさにティルスの新たな拠点としての役割を担った都市でした。

実際ビュルサの丘は、もらったというより、借りたと言われており、紀元前5世紀まで、カルタゴは現地人に対して租借金を支払っていたと言われています。

ディドー女王のカルタゴ建国:出典 J. M. W. Turner – The Athenaeum

カルタゴ、北アフリカの商業都市に

エリッサ達が、ビュルサの丘に砦を築くと、それを見たカルタゴ周辺の人々は、商売の機会を求めて商品を携え、自然とカルタゴに集まってきました。エリッサ達が財宝を持ち、交易の知識にも長けていることを見て、利益を得られると考えたのです。やがてその賑わいは、一種の市場のような空間となり、徐々に都市の原型を形作っていきました。

この様子を知った近隣の古いフェニキア人植民都市ウティカは、使者に贈り物を持たせてエリッサに送り、歓迎しました。また、「この地こそ、新たな都市の建設にふさわしい場所だ」と語り、エリッサに、この地に留まるよう勧めます。

一方、アフリカの現地人たちも、エリッサ達を引き留めておきたいという気持ちを強めていきました。交易の恩恵や文化の刺激を受けられることを期待し、入植を受け入れることに前向きだったのです。

こうして、フェニキア人の先行移民たち、そして土地の現地人たちの思惑が重なり、皆の同意のもと、カルタゴという都市が正式に建設されることとなりました。これは単なる開拓ではなく、多様な人々の理解と利益の一致によって生まれた、地中海でもまれに見る平和的な都市建設の例です。

エリッサ女王の苦悩、再婚か戦争か

北アフリカの現地人たちを統べる王イアルバスは、カルタゴの女王となったエリッサの知性と美しさ、そしてカルタゴの発展ぶりに強く惹かれ、彼女との結婚を望むようになりました。

そこでイアルバスはまず、エリッサの側近である10人の有力者たちを呼び出し、「もし彼女が私との結婚を拒むならば、戦争になるだろう」と脅しをかけます。

側近たちは、この事実をそのままエリッサに伝えず、代わりにこう伝えます。「王イアルバスは彼自身や彼の部下たちに、より文明的な生活を教えてくれる者を求めています。しかし、血縁や祖国から離れ、獣のような暮らしをしている野蛮人の中に入っていこうとする者などいるでしょうか?」

この言葉に、エリッサは憤りながら言い放ちます。「祖国のためなら命を投げ出すべき時もあるのに、そんな理由で尻込みするとは情けない!」。しかしこれは、彼女自身がアフリカ人のもとへ行く決意を口にしたのと同義です。

側近達は彼女に真実を明かし、冷たく言い放ちます。「自分が人に命じたことを、自分で実行なさるがよい。」

エリッサ女王の最期と神格化(紀元前810年頃)

エリッサはかつて亡き夫の霊に対して「再婚しない」と誓っていました。しかし、自ら放った言葉、そして何より、自分が結婚しなければ、カルタゴ市民が戦争に巻き込まれてしまうという事実に苦悩しました。

そこで、彼女は「亡き夫のための葬儀を行いたい」と称し、盛大な火葬の壇を築かせます。すると、その壇上に立ち、そこで自らの命を絶ちました。この行動は、彼女の信義と誇りを示すものであり、カルタゴ市民たちに深い敬意をもって記憶されます。

後に彼女は「ディドー」(さまよえる者)という名で神格化され、カルタゴの女神として都市と民を守護する存在となったと伝えられています。

ローマの英雄叙事詩「アエネイアス」では、ディドーはトロイア戦争に敗れて逃れてきた英雄アイネイアスと恋に落ちます。しかし、アイネイアスは神託に従いイタリア半島へ旅立ってしまいました。捨てられたディドーは絶望し「ローマの末裔よ、我が民カルタゴと永遠に争え」と呪いの言葉と共に自害します。しかし、これは歴史というより創作的要素が強いです。なぜなら、後にアイネイアスの息子がアルバ・ロンガという都市を建国しますが、このアルバ・ロンガの第13代王の孫にあたるのが、ローマの創始者ロムルスです。アイネイアスとローマは時代が違いすぎているのです。

ディドー女王の死:出典Marie-Lan Nguyen

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エリッサ死後のカルタゴ政治体制、 万学の祖に理想的な政体と言わしめる

カルタゴの政治制度は、エリッサの死後、数世代の王政を経て共和制へと緩やかに移行していったと言われています。カルタゴの共和政は、貴族制と民主制の要素をバランスよく取り入れた混合政体です。当時としては非常に洗練されたものであり、万学の祖であるアリストテレスをして理想的な政体の一つと評されました。王政の名残をとどめつつも、民意と貴族の意見が巧みに調和したその政治制度は、後のローマにも影響を与えたとされています。ここでは、共和政カルタゴの政治構成を紹介していきます。

評議会の構成と役割

評議会は、貴族階級の長老たち(終身制)で構成されていました。人数は約30人〜数十人だったと考えられています。評議会は、最も権威ある意思決定機関の一つであり、実質的にカルタゴの内政・外交・戦争の可否などの軍事方針を議論・決定していました。他にも、スフェトや将軍など、他の官職者の選出や承認を行っていました。アリストテレスによれば、彼らは非常に有能で、カルタゴの安定を支える柱であったそうです。

スフェトの構成と役割

スフェトは貴族階級から選ばれた2名の最高政務官です。任期は1年で、同時に2人が就任します。独裁的な権限を持たず、常に合議的に行動することが求められました。王政廃止後の最高行政官として、将軍の選任・監督、民衆や外国との交渉・取りまとめ、評議会や百人会の議題の調整・運営を担いました。

将軍の構成と役割

将軍職は貴族のみから選出され、軍事経験や名門出身であることが重要視されました。将軍は戦時における指揮官であり、戦争の遂行においては絶大な権限を持ちました。ただし、遠征に出る将軍たちの行動は、百人会によって監視されています。主な役割は、軍の編成と指揮、作戦立案と戦場での決定権、場合によっては征服地の統治なども行っていました。

百人会の構成と役割

百人会は、有力な市民(上層市民)から選ばれた104人のメンバーで構成されていました。この機関は、将軍やスフェトといった執行権を持つ者を監視・抑制するための強力な司法・監察機関でした。軍事行動を終えて帰国した将軍は、ここで厳しい報告義務と追及を受けることがありました。政治・軍事における不正の監視、スフェトや将軍の監査、法執行の監督を行っていました。

カルタゴの繁栄 – 西地中海最強の都市国家に

フェニキアの有力都市ティルスの植民市だったカルタゴは、紀元前6世紀半ばまでにフェニキア本国に代わって地中海西部の覇権を握るに至りました。その過程では、フェニキア本国が弱体化したこと、ティルスの没落に伴い、人材や知識がカルタゴへ流出したことが重要な背景となりました。カルタゴは他のフェニキア植民市の主導権を次第に掌握し、政治的同盟や軍事行動、経済的繁栄を通じて西地中海各地に勢力を拡大していきました。この新たに確立された「カルタゴ版」の交易ネットワークによりカルタゴは富と権勢を蓄えました。

フェニキア本国の衰退(紀元前9世紀〜紀元前6世紀)

紀元前1千年紀後半、フェニキア本国(ティルス、シドン、ビブロスなど)は新アッシリア帝国の支配下に置かれました。これは貢納や干渉を強いるもので、フェニキア本国の活力を奪いました。

アッシリア帝国が紀元前612年に崩壊すると、後継勢力として新バビロニア帝国が台頭し、フェニキア都市にも圧力を加えました。ネブカドネツァル2世はティルスを13年間包囲し、ティルスは大きく疲弊しました。最終的にティルスは降伏し、バビロニアの監督官を受け入れることとなりました。この長期戦と内政の混乱によって、ティルスは従来掌握していた西地中海の植民市との連絡・統制力を失っていきました。

没落したティルスからカルタゴへの人材・知識の移動(紀元前6世紀前半)

ティルスの経済的・政治的影響力が低下すると、商人や職人などが西方の植民市へ移動しました。なかでも北アフリカのカルタゴがその受け皿となりました。ティルスの高度な航海術・商業知識を携えた人々がカルタゴの発展に寄与したと考えられています。

カルタゴは形式的にはティルスを母市としていましたが、紀元前6世紀には事実上自立し、ティルスへの貢納も次第になくなりました。こうして西方フェニキア人社会の中心がカルタゴへと移行していったのです。

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カルタゴ、フェニキア植民市間の主導権を握る(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)

カルタゴは次第に独自の植民活動を行うようになりました。北アフリカ沿岸の各地やサルディニア・イベリア半島・バレアレス諸島・大西洋岸にも進出しました。

ティルスの衰退を受けて他の植民市はカルタゴの庇護を求め、カルタゴは条約を通じて従属関係を築いていきました。王政を維持しつつも、有力貴族による寡頭制的支配体制の下、マゴ家などの軍制改革により軍事力を強化しました。

こうしてカルタゴは政治的にも自立した独立国家となり、西方フェニキア人社会の覇権を確立していきました。

西地中海でのカルタゴの拡大(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)

カルタゴは外交・軍事・経済の3つの手段を用いて勢力を拡大しました。

政治的には、エトルリアとの同盟や他の植民市との条約により、戦争を交えることなく影響圏を拡大しました。

軍事的には、傭兵を中心とする常備軍を整備し、西シチリアやサルディニアの防衛体制を築きました。シチリア西部ではギリシア人と衝突し、カルタゴの支援によってフェニキア系都市はこれを撃退することに成功しています。

経済的には、広域交易ネットワークを掌握しました。農産物、貴金属、染料などを扱い、特にイベリアの銀やブリテン島の錫は重要な戦略物資でした。カルタゴはこれらの供給源を独占し、他民族の参入を防ぎながら、経済力を軍事と統治に転用していきました。

カルタゴによる新たな交易ネットワークの確立(紀元前6世紀)

カルタゴはチュニス湾という地理的要衝に位置し、シチリアとアフリカの海峡を押さえることで交易上の優位を確保しました。

北アフリカの農産物やイベリアの金属、内陸アフリカの象牙・奴隷、東地中海からの贅沢品などがカルタゴを中心に取引され、カルタゴはこれを再分配する中枢となりました。

錫の交易は青銅生産に不可欠であり、カルタゴはその供給路を秘匿し、ギリシア人の参入を防いだと言われています。

カルタゴ(Carthage)の領土

カルタゴとギリシア勢力の地中海覇権争い(紀元前6世紀〜3世紀前半)

紀元前8世紀から6世紀頃にかけて、フェニキア人とギリシア人はともに地中海世界で植民活動を行っており、カルタゴはその中でも特に成功したフェニキア系植民市でした。やがてカルタゴは独自の軍事力と経済力を強化し、西地中海での覇権を確立し始めます。

一方、ギリシア人も南イタリアやシチリアに植民市を建設し、西方への進出を強めました。この二つの勢力が交易、領土、影響力をめぐって競合するようになり、やがて軍事衝突へと発展しました。

カルタゴは軍を強化するため、軍隊の傭兵化を実施しました。多民族国家だったカルタゴは、市民軍よりもリビュア人、ヌミディア人、イベリア人、ガリア人などからなる傭兵部隊を多用しました。この傭兵制度はカルタゴの軍事力拡大に貢献しました。

この時期、カルタゴは商業国家であるだけでなく、軍事国家としての性格も強めていきます。

紀元前580年頃:セリヌス戦

この戦いは、カルタゴがシチリアにおける影響力を築き始めた初期の軍事行動でした。カルタゴとその同盟者であるエリミ人は、シチリア南西部に進出してきたギリシア人植民市セリヌスを攻撃し、これを撃退しました。この戦いは、カルタゴがシチリア西部での拠点確保に成功したことを意味しており、その後のギリシア勢力との長期的対立の幕開けとなりました。

紀元前540年頃:アルバ岬の海戦(アラリア沖の海戦)

この戦いは、西地中海における制海権を巡るカルタゴとギリシア人の初の本格的海戦でした。カルタゴとエトルリアが同盟を結び、フォカイア人のギリシア艦隊とコルシカ島沖で衝突しました。ギリシア艦隊は奮戦して勝利したものの、大きな損害を受け、最終的にはコルシカ島から撤退しました。戦略的にはカルタゴ・エトルリア側が西地中海の制海権を確保したことになり、カルタゴの海上優位を示した一戦でした。

紀元前510年:ドリエウスの遠征失敗

スパルタ王族ドリエウスがシチリアに新たなギリシア植民市を建設しようと試みた遠征は、カルタゴとエリミ人の連合軍によって阻止されました。この戦闘でドリエウスは戦死し、ギリシア勢力による西シチリアへの進出は大きな挫折を受けました。この出来事はカルタゴがシチリア西部の支配を守ることに成功した象徴的な勝利であり、今後の戦略的防衛線の一つとなっていきます。

紀元前480年:ヒメラの戦い

この戦いは、カルタゴがシチリア統一を目指すシュラクサイの僭主(せんしゅ)ゲロンに挑んだ一大軍事作戦でした。カルタゴ軍は大軍をもって上陸しましたが、ギリシア連合軍の反撃を受けて敗北し、将軍ハミルカルが戦死しました。この敗北はカルタゴにとって大きな痛手であり、以後しばらくの間シチリアへの軍事的関与を自制することになります。

ここで出てくる将軍ハミルカルは、のちにローマとの戦いで活躍する、将軍ハミルカル・バルカとは別人です。

紀元前409年〜紀元前405年:カルタゴのシチリア再侵攻

ヒメラの敗北後、カルタゴは内政・経済の再建に成功し、再びシチリアでの覇権を目指して軍事行動を起こしました。セリヌスやヒメラを再び占領することに成功しましたが、シュラクサイ攻略のための長期包囲戦では疫病の流行により軍が疲弊し、カルタゴは講和を余儀なくされました。これによりカルタゴは一部の領土を獲得しつつも、完全な勝利には至りませんでした。

紀元前398年以降:ディオニュシオス1世との戦争

シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世はカルタゴに対抗して軍備を増強し、カルタゴ勢力圏への攻撃を開始しました。カルタゴも反撃に出て一進一退の攻防が続きましたが、戦局を決定づけることはできませんでした。最終的には講和が結ばれ、カルタゴは西シチリアの支配を維持しつつ、東部のギリシア都市との緊張関係が継続する結果となりました。

紀元前344年以降:ティモレオンの遠征

シュラクサイの政情不安を受けて、母都市コリントスから派遣された将軍ティモレオンは、カルタゴ軍を撃破し、シチリアの多くの都市をギリシア人の支配下に戻しました。クラミスス川の戦いなどでカルタゴ軍に大勝、カルタゴの勢力をシチリア西端にまで押し戻すことに成功しました。講和条約によってカルタゴはシチリア西部に限定された勢力を保持することとなり、ティモレオンは島に比較的安定した秩序をもたらしました。

紀元前315年以降:アガトクレス戦争

シュラクサイの僭主アガトクレスはカルタゴとの戦争を再開し、シチリアのカルタゴ領を攻撃しました。カルタゴはこれに反撃し、アガトクレスは追い詰められた末に逆上陸作戦を敢行し、カルタゴ本土に攻め込みました。この遠征は一時的に成功しましたが、最終的にはカルタゴ軍に撃退され、アガトクレスは撤退を余儀なくされました。結果としてシチリアの勢力図は大きく変わらず、カルタゴは西部の支配を維持しました。

紀元前278年以降:ピュロスの遠征

南イタリアでローマと戦っていたエピロス王ピュロスは、シチリアのギリシア都市の要請を受けて島に上陸しました。彼はカルタゴ軍に連勝し、西シチリアを次々に制圧しましたが、カルタゴの堅固な防衛線に直面し、さらにシチリアのギリシア人との関係も悪化していきました。最終的に補給と支持を失ったピュロスは撤退し、カルタゴはシチリア西部の支配を維持することに成功しました

ローマとの衝突 – 第一次ポエニ戦争、カルタゴ衰退への第一歩

第一次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)は、ローマとカルタゴという地中海の二大勢力が、初めて本格的に激突した戦争です。この戦争でローマは初めての海外進出。一方でカルタゴはすでに海外に進出しており、カルタゴの海軍力は、ローマのそれを、数と質ともに遥かに上回っていました。しかし結果はカルタゴの敗退。そこにはカルタゴの立場や行動、苦悩、誤算、そして失敗がありました。ここではカルタゴの運命を変えた第一次ポエニ戦争について、カルタゴの視点から紹介していきます。

第一次ポエニ戦争の発端 – メッシーナを巡る争い

紀元前3世紀初頭、ローマはピュロス戦争の勝利によりイタリア半島の大部分を支配下に置いていました。一方のカルタゴは、地中海西部に広がる広大な海上帝国を築き上げており、北アフリカ、イベリア半島南部、バレアレス諸島、コルシカ島、サルディニア島、シチリア西部を支配していました。

両国はこれまでに何度か条約を結んで比較的友好な関係を築いていましたが、シチリア島北東部のメッサナ(現メッシーナ)をめぐる事件が転機となります。紀元前289年、元シラクサ傭兵で構成されたマメルティニと呼ばれる集団がメッサナを占拠しました。後にシラクサがこの都市を攻撃したことで、マメルティニはローマとカルタゴの両方に援助を求めることになります。

カルタゴは素早く対応して守備隊を派遣し、メッサナの防衛にあたります。ローマは当初介入に慎重でしたが、最終的に民会の決議により出兵が決定され、執政官アッピウス・クラウディウス・カウデクスがメッサナに進軍しました。

ローマ軍の介入により、カルタゴ守備隊は追放され、メッサナはローマの保護下に入ります。続いてシラクサ王ヒエロン2世もローマと同盟を結び、これによってローマは本格的にシチリアへ介入し、カルタゴとの戦争に突入しました。

カルタゴ軍とローマ軍の戦力比較(開戦時)

カルタゴ陸軍

カルタゴ陸軍は、ほとんどが傭兵で構成される混成軍でした。カルタゴ市民は基本的に軍事には参加せず、代わりにアフリカ(リビア人など)、イベリア半島(ケルト・イベリア人)、ガリア、バレアレス諸島(投石兵)、ヌミディア(軽装騎兵)などから雇った兵士で軍を組織していました。彼らはそれぞれ異なる戦法を持っており、たとえばリビア歩兵はファランクス型の密集陣形を組み、ヌミディア騎兵は高速で機動的な側面攻撃を得意としました。また、カルタゴ軍は北アフリカ産の戦象も運用しており、象部隊による突撃は心理的な効果も含めて戦場で大きな影響力を持ちました。

ローマ陸軍

ローマ陸軍は、基本的に市民兵制に基づく重装歩兵中心の軍団(レギオン)で構成されていました。兵士はローマ市民であり、土地を持つ者に徴兵義務がありました。軍団は約4,200人の歩兵と300人の騎兵で構成されており、これに同盟都市(ソキイ)の部隊が加わります。戦術面では、3列構造(ハスタティ、プリンキペス、トリアリイ)を基本とするマニプル(小隊)戦術が用いられており、柔軟な隊形と前線の交代によって持久力と戦闘の継続性に優れていました。


カルタゴ海軍

カルタゴは長年にわたり西地中海を支配してきた海洋国家であり、数百隻規模の軍艦を常時保有する大海軍国でした。主力艦は五段櫂船(クインクエリーム)で、青銅の衝角(ラム)による体当たり攻撃を主な戦法とし、優秀な船乗りや指揮官を多数揃えていました。水兵や漕ぎ手たちは幼少期から海で育てられた熟練者で、複雑な艦隊運用、列隊機動、隊形変換、奇襲・包囲といった高度な海戦戦術を駆使することができました。

ローマ海軍

開戦当初においてほとんど海軍を持っておらず、海戦の経験も皆無に近い状態でした。ローマは沿岸部の防衛や限定的な海上輸送を同盟都市の船団に依存しており、本格的な艦隊を建造したことはありませんでした。

アグリゲントゥムの戦い(紀元前262年〜紀元前256年)

ローマ軍はシチリア南岸の要塞都市アグリゲントゥムを包囲しました。この都市はカルタゴの重要な拠点であり、長期の包囲戦が展開されました。ローマ軍は補給線の維持に苦しむ中、カルタゴの救援軍ハンノ将軍率いる部隊が到着し、野戦での決戦に突入しました。

戦術的にはローマ軍は自軍の重装歩兵による前面攻撃と側面包囲を組み合わせ、カルタゴ軍を押し崩しました。ただし、カルタゴ守備隊は夜間に脱出に成功したため、都市自体は陥落したものの完全な決定打とはなりませんでした。それでも、シチリア本島でのカルタゴの影響力を大きく後退させた重要な戦いとなりました。

ミュラエの海戦(紀元前260年〜紀元前249年)

ローマはこの戦争で初めて大規模な艦隊を建造し、海上戦力を強化しました。ミラエ沖では、ローマ艦隊が新兵器「コルウス(跳ね橋)」を用いて、敵船に乗り移り白兵戦を展開するという独自戦術を取りました。

この方法により、操船技術で優れるカルタゴ艦隊の機動力を封じ、船上での格闘戦に持ち込んで勝利しました。この勝利はローマ海軍にとって初の本格的な勝利であり、以後の海上戦においても自信と戦術の土台を築く転機となりました。

エクノモスの海戦とアフリカ侵攻(紀元前256年〜紀元前255年)

ローマはカルタゴの本土を直接脅かすことで、戦争を有利に進めようとしました。ローマ艦隊はエクノモス沖でカルタゴ艦隊と激突し、当時としては最大規模といわれる大海戦に勝利します。この戦いでは、ローマ艦隊は中央突破と側面支援を同時に行う複合戦術を採用し、密集した艦隊運用でカルタゴ艦隊を分断し包囲しました。その後、執政官レグルスの軍がアフリカへ上陸し、カルタゴの周辺都市を攻略しました。

しかし、カルタゴはギリシア人傭兵の名将クサンティッポスを招聘し、兵力を再編成しました。チュニス近郊での会戦では、戦象を前面に配置し、騎兵を側面に展開させる「挟撃戦術」により、ローマ軍の重装歩兵を正面から打ち崩し、さらに側面から騎兵が突入する形でローマ軍を壊滅させました。レグルスは捕虜となり、ローマ軍のアフリカ遠征は失敗に終わりました。

パノルムスの戦い(紀元前250年)

シチリア西部の要衝パノルムスを防衛していたローマ軍に対して、カルタゴ軍は大量の戦象を率いて攻撃を仕掛けました。ローマ軍は敵を城壁付近まで引きつけた上で、軽装部隊による集中投擲攻撃を行い、戦象を混乱させて逆走させました。

これによりカルタゴ軍の隊列は崩壊し、混乱の中でローマ軍が反撃して圧勝します。捕獲した象兵は120頭以上に及んだとされ、この戦いにより、シチリアでの陸上戦におけるローマの優勢は決定的となりました。

ドレパナ沖海戦と海軍喪失(紀元前249年)

ローマはカルタゴの海上補給拠点であるドレパナへの奇襲を試みましたが、カルタゴ海軍に待ち伏せされて逆に敗北します。カルタゴはこの戦いで優れた水上機動戦術と包囲攻撃を展開し、ローマ艦隊を分断して各個撃破しました。さらに直後に嵐によってローマは多数の艦船を失い、この一連の損失で、ローマは一時的に制海権を喪失し、以後しばらく大規模な海上作戦を控えるようになります。

決戦、アエガテス諸島沖の海戦(紀元前241年)

ドレパナ海戦で艦隊を失ったローマは、資金不足で艦隊を持たない時期が続いていましたが、民間から資金を集めて艦隊の再建に動きました。カルタゴは将軍ハミルカル・バルカをシチリアに派遣し、ゲリラ戦で抵抗。しかし兵力も資金も限られており、カルタゴは海上優位を保ちつつも、戦局を決めきれずにいました。

紀元前241年、ローマは海軍を再建。船舶も操縦しやすく改良しました。海軍を再建したローマは、20年以上続いた戦争に終止符を打つため、カルタゴ海軍をアエガテス諸島沖で待ち伏せしました。出現したカルタゴ船は、補給物資を積んでおり、動きが鈍くなっていました。これに気付いたローマ海軍は、風上から一気に突撃、カルタゴ海軍は完全に敗北しました。

この敗北でカルタゴは艦隊を失い、海軍の優位性も失いました。

カルタゴ屈辱の降伏

カルタゴは、海軍の優位性も失い、ローマへの降伏を余儀なくされました。結果、重い賠償金を負い、シチリア島も失います。これにより、カルタゴは経済的に大きな打撃を受けることになりました。一方でローマは初の海外領土としてシチリアを獲得し、海軍国家としての道を歩み、西地中海の覇権がカルタゴから、ローマへと移っていくことになります。

将軍ハミルカル・バルカ

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不死鳥のごとく蘇るカルタゴ

紀元前241年、第一次ポエニ戦争の講和条約により、カルタゴはローマに対して銀3,200タレントの賠償金を10年分割で支払うこととなりました。さらに紀元前237年には、サルディニアとコルシカの併合をローマに強要され、追加で1,200タレントの支払いも命じられました。加えて傭兵への報酬未払いによって「傭兵戦争」が勃発し、国家は一時的に崩壊の危機に瀕しました。

しかしカルタゴは、商業力と戦略的な外交手腕によって、まさに不死鳥のごとく再び立ち上がることになります。ここでは、その「蘇り」の過程を紹介します。

傭兵戦争の鎮圧と国内秩序の回復

傭兵戦争はハミルカル・バルカらの軍事的指導により、数年で鎮圧されました。この成功によりカルタゴは国内の秩序を回復し、国家再建の土台を築くことができました。

財政再建と重税政策

カルタゴ政府は、アフリカ本土における征服活動を通じて財政再建を進めました。将軍ハンノの主導で、征服地の住民に対して厳しい課税が行われました。具体的には、収穫物の半分を税として徴収するほか、従属都市には倍額の貢納を求めるなど、極めて厳格な税制が敷かれました。

鉱山資源の活用と経済基盤の整備

失ったシチリア・サルディニアの代替として、カルタゴはアフリカ本土や内陸部の鉱山開発を進めました。特に鉛や銀の採掘が活発に行われ、これが賠償金の支払いや軍備の再整備に貢献したと考えられています。

貿易ネットワークの再構築

カルタゴは地中海西部での交易活動を復興させるため、フェニキア系の旧植民都市との関係を強化しました。また、アフリカ内陸部からの農産物・鉱産物の輸出によって、交易国家としての地位を維持・再興していきました。

イベリア半島への進出 ― 新天地の開拓

第一次ポエニ戦争の敗北後、カルタゴはシチリアやサルデーニャなどの重要な拠点をうしなったので、新たな拠点づくりを始めました。それが イベリア半島の開拓です。

将軍ハミルカル・バルカは、カルタゴ本国の疲弊から抜け出すため、豊かな鉱山資源を有するイベリア半島に目を向けました。ここで彼は現地の部族を制圧し、カルタゴに代わる新たな経済的・軍事的基盤を築きます。

商業活動の回復と拡大

カルタゴは地中海西部の拠点(シチリア・サルデーニャ)をローマに奪われた後も、北アフリカ沿岸、リビア、ヌミディア、フェニキア系都市との商業関係を再構築・強化しました。特にカルタゴの農産物・工芸品、染料(紫)・塩・金属製品などの輸出で経済を再活性化。ローマとの直接対立を避けながらも、着実に貿易ネットワークを広げていきました。

政の安定化と政体の再調整

カルタゴ本国では評議会やスフェトを中心に、貴族層が国家の統制を強める形で安定化を図りました。ハミルカル・バルカはやや独立的で軍事志向が強い家系でしたが、本国ではあくまで伝統的な政治体制によって、財政再建・秩序維持・外交対応が行われました。

軍制の改革と防衛体制の再構築

カルタゴは、再び大規模な戦争に備えるために、傭兵軍の編成・訓練・駐屯体制の整備も並行して進められていました。地元のリビア人やヌミディア人との連携も深め、戦力の底上げを図りました。

カルタゴの復讐戦 – 第二次ポエニ戦争

第二次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)は、古代地中海世界で最も壮絶で劇的な戦争の一つです。この戦争は、カルタゴとローマの宿命的な衝突の第2幕として、多くの英雄、戦術、悲劇を生み出しました。カルタゴ側の視点で見れば、それは「復讐」と「誇り」、そして「滅びの序章」ともいえる戦いです。

第二次ポエニ戦争の発端:サグントゥム包囲戦(紀元前219年)

第一次ポエニ戦争後、カルタゴはイベリア半島への勢力拡大を進めていました。これに警戒したローマとの間で、エブロ川を勢力の境界とする条約(エブロ川条約)が結ばれました。カルタゴはエブロ以南、ローマは以北に影響力を持つことが確認されました。しかし、条約には曖昧な点が多く、エブロ以南にあるローマの同盟都市サグントゥムをめぐって緊張が高まっていきました。

カルタゴの将軍ハンニバル・バルカは、ローマと同盟関係にあった都市サグントゥムを包囲しました。この都市はカルタゴの勢力圏内にありながらローマと強い関係を持っていたため、両国の条約解釈をめぐる対立が表面化します。ハンニバルは約8か月間にわたる包囲の末にサグントゥムを陥落させました。これに反発したローマは、カルタゴへの使節派遣後に宣戦を布告し、第二次ポエニ戦争が正式に始まりました。

カルタゴ将軍ハンニバル・バルカ – ローマの悪夢と呼ばれた男

ハンニバル・バルカは、古代カルタゴを代表する将軍であり、後世の多くの軍事家や歴史家に「戦術の天才」と称される人物です。彼は紀元前3世紀に活躍し、特に第二次ポエニ戦争においてローマを存亡の危機に追い込んだことで知られています。

彼の生涯は、少年時代にまでさかのぼって強烈な印象を残します。父ハミルカル・バルカは第一次ポエニ戦争の英雄であり、敗戦後のカルタゴの再建を担っていた将軍でした。伝えられるところによれば、ハンニバルは9歳のとき、父から「一生ローマを憎むことを誓え」と言われ、神殿で誓約を立てさせられたといいます。この幼き日の誓いが、彼の人生を決定づけたのです。

ハンニバルによるイタリア半島における軍事行動

紀元前218年:アルプス越えとトレビア川の戦い

ハンニバルはカルタゴ・ノヴァ(現在のスペイン南部)から軍を率いて出発し、アルプス山脈を越えてイタリア本土へ侵入しました。この大胆な行動は、予期せぬ方向からローマに攻撃を仕掛けるというものでした。

最初の大規模な戦闘となったのがトレビア川の戦いです。ハンニバルは、ローマ軍が寒冷の朝に川を渡って疲労した状態で戦場に到着するよう仕向けました。さらに、自軍の一部を川の背後に伏兵として潜ませ、戦闘中にローマ軍の背後を奇襲させることで包囲殲滅を成功させました。この巧みな戦術により、ローマ軍は大敗を喫しました。

紀元前217年:トラシメヌス湖畔の待ち伏せ戦

翌年、ハンニバルは再びローマ軍に対して待ち伏せ戦術を実行します。トラシメヌス湖畔の狭隘な地形を利用し、霧が立ち込める早朝にローマ軍を進軍させた後、両側の丘に潜ませた部隊で一斉に襲撃をかけました。

湖と山に挟まれた道で挟撃されたローマ軍は逃げ場を失い、壊滅的な損害を受けます。この敗北を受け、ローマは消耗戦によって時間を稼ぐ「ファビウス戦術」へと方針を転換します。

紀元前216年:カンナエの決戦 ― 古代戦術の頂点

カンナエの戦いは、第二次ポエニ戦争において最も有名な戦いの一つです。ハンニバルは、自軍の中央部をあえて弱く見せて後退させ、ローマ軍を中央に集中させた上で、両翼から包囲するという「二重包囲戦術」を用いました。

この陣形によりローマ軍は自ら袋小路に入り、後方からも騎兵に包囲されて壊滅しました。ローマ軍は一日にして数万人の兵士を失い、この戦いは戦術的にも心理的にもローマに大打撃を与えました。ハンニバルの用いた包囲戦術は、現代でも軍事史の傑作として評価されています。

カルタゴ本国、ハンニバルの足を引っ張る

カルタゴ本国は、ハンニバル・バルカの連戦連勝で、ローマを滅ぼすチャンスにも関わらず、これを支援しませんでした。これには政治的分裂・地理的制約・戦略の違いなど、複数の要因が絡み合っていたと言われています。

カルタゴ本国では、親ハンニバル派と和平派が対立していました。カルタゴ本国にはハンニバルを快く思っていない「商業中心の和平派」が存在していました。特に商人や大地主たちは、ローマとの長期戦による貿易の損失や税負担の増加を懸念し、戦争継続に消極的でした。そのため、ハンニバルがカンナエで大勝してイタリア半島で覇権を握ったときですら、カルタゴ本国からの本格的な軍事支援はありませんでした。

他にもカルタゴ本国がハンニバルを支援できなかった理由として、ローマ海軍による海上封鎖もありました。ローマの海軍が地中海を封鎖していたため、第一次ポエニ戦争で海軍力を大きく損失しているカルタゴには、ハンニバルに補給や増援を送ることが非常に困難でした。

また、カルタゴ本国とハンニバルには戦略的な違いがありました。ハンニバルは「イタリア本土でローマを直接屈服させる」ことを狙っていました。一方カルタゴ本国の政治家たちは「イベリア半島の支配を守ること」が重要だと考えていました。結果的に、ハンニバルへの本格支援よりも、ローマに攻め込まれたイベリア方面への防衛を優先しました。

ローマの反撃、英雄スキピオの登場

長年にわたってハンニバルがイタリア半島各地を荒らし、ローマは重大な打撃を受けましたが、ローマ人の粘り強さは衰えませんでした。そして戦局が変わるきっかけとなったのが、若き将軍プブリウス・コルネリウス・スキピオの登場です。スキピオは、ハンニバルを正面から叩かず、ハンニバルの勢力基盤であったイベリア半島を攻撃し、カルタゴからの補給路を断ちました。これにより、ハンニバルはイタリア半島に孤立し、本国からの増援を望めない状態となってしまいました。

次にスキピオは、戦場をイタリア半島から、カルタゴ本国のある北アフリカに移すため、カルタゴ本国への直接攻撃を実施ました。これに焦ったカルタゴ本国は、ハンニバルをイタリア半島から呼び戻すことにしました。これにより、ハンニバルのイタリア半島での孤独な戦いが終了することになるのです。

紀元前202年:ザマの戦い ― ローマの逆転勝利

戦争は最終的にカルタゴ本土へと移ります。ローマの将軍スキピオ(のちの「アフリカヌス」)は、アフリカに遠征しカルタゴ軍と決戦に挑みました。ザマの戦いでは、ハンニバルが最後の大軍を率いて立ちはだかります。

ハンニバルは戦象による突撃と騎兵の誘導を試みましたが、スキピオは戦象を無力化するために隊列に通路を設け、突撃を無意味にしました。さらに、スキピオは自軍騎兵を退避させた後に再投入し、カルタゴ軍の背後を包囲することに成功しました。

これによりカルタゴ軍は壊滅し、ハンニバルは敗走を余儀なくされました。ザマの勝利によってローマは第二次ポエニ戦争に勝利し、カルタゴは屈辱的な講和条約を結ばされ、再び重い賠償と軍事制限を課されることとなりました。

カルタゴの降伏と没落

カルタゴが降伏すると、ローマはカルタゴに対して非常に厳しい講和条件を突きつけました。50年にわたって支払う巨額の賠償金。カルタゴ海軍の解体。イベリア半島の割譲。また、カルタゴが戦争を起こすにはローマの許可が必要になりました。これによって、カルタゴは事実上ローマの属国のような立場となり、かつての西地中海最強国はその力を大きく削がれることになりました。

ローマの悪夢ハンニバル:出典Fratelli Alinari – Reddit

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カルタゴ、やはり不死鳥のごとく蘇る

カルタゴは第二次ポエニ戦争で敗北し、かつての軍事力と海外領土のほとんどを失いましたが、それでもカルタゴは不死鳥のごとく蘇ります。軍事ではなく経済に注力し、驚異的な経済復興でローマを驚愕させます。その道のりをご紹介します。

農業の徹底的な再編

カルタゴは自国内の耕地を最大限に活用する方針へと舵を切ります。特筆すべきは、農業マニュアル「マゴー農書」の存在です。これはカルタゴの農業指導者でもあったマゴによって編纂されたもので、灌漑技術、作物の輪作、剪定方法、果樹の接ぎ木、肥料の種類とその使用法などが記されています。後にローマ人さえもこの農書をラテン語に翻訳し、参考にしたと伝えられています。

このような技術的蓄積のもと、カルタゴは乾燥した気候を逆手にとって、オリーブやブドウなどの高付加価値作物を中心にした農園経営を再構築。さらに穀物栽培の拡大にも力を入れ、都市の人口増加と交易需要に対応できるだけの自給体制を整えました。

都市インフラの再整備

ザマの戦いで敗北した後、カルタゴ市街は部分的に破壊されていましたが、ローマの監視の目を逃れつつ、着実に都市機能を再建していきました。

中心部には広場(アゴラ)や神殿を再建し、都市機能の再配置を通して商業と手工業に特化した区域を整備。特に港湾周辺には新しい倉庫(ホラエ)や検査場が整備され、税関的機能を果たす施設も備えられました。

また、上下水道においても高度な技術が導入され、市民生活の衛生状態や飲料水の供給が安定。これにより、人口の再定住を後押しする基盤が整いました。

港と貿易の活性化

カルタゴは戦前から海上貿易の拠点であり、特にシチリア、サルディニア、イベリア半島を結ぶ交易路を持っていました。戦後は軍事的制約のため制海権を失いましたが、それでも貿易活動は完全には止まりませんでした。

彼らは主に商人ギルド(商業組合)の力を活用し、ローマに脅威を与えないように見せかけつつ、地中海沿岸諸都市と密接な経済関係を築いていきました。

また、カルタゴ港は二重構造(商業港と軍港)を持っていたという記録もあり、ローマとの戦後条約によって軍港は封鎖されていましたが、その建築的インフラを転用して民間の船の修理や荷役機能を強化したと考えられています。

カルタゴの軍港と商業港:出典Imperium Romanum

職人と労働力の充実

カルタゴは再建期において、都市再建・農地開拓・工業生産のために大量の労働力を必要としました。この労働力は、戦争捕虜から解放された元傭兵、周辺リビア人やヌミディア人、奴隷商人を通じて入手した各地の奴隷
といった多様な人々から構成されていました。

職人の技術水準は非常に高く、特にガラス細工や金属細工はローマ人にとっても魅力的な輸入品であり、ブロンズ製の香炉、金銀の装飾品などが盛んに製作されました。

また、布製品においてはフェニキア系伝統を引き継ぐ染色技術(ティルシアンパープル=紫の染料)を活かした高級衣類が輸出品として重宝されました。

財政の健全化

カルタゴの財政再建を主導したのが、戦後のスフェトに就任したハンニバル・バルカです。彼は武人であるだけでなく、非常に優れた行政官でもありました。彼はスフェトとして、以下のような財政改革を行いました。

  • 税制の見直し:商人・地主層に対して公平な課税制度を実施

  • 公共支出の透明化:収支の帳簿を作成・公開し、不正を取り締まった

  • 対外債務の早期返済:当初50年かかるとされた賠償金の完済を、わずか数年で達成したとされます

このようなハンニバルの施策によって、カルタゴは一時的とはいえ、ローマにも匹敵するほどの安定した都市財政を手にすることができたのです。

戦争に負けて、軍事を封じられても、経済でのし上がったカルタゴは、どこか戦後の日本と重なりますね。

不死鳥カルタゴを恐れたローマ – 第三次ポエニ戦争

何度敗れても不死鳥のごとく蘇るカルタゴにローマは恐れを抱いていました。また、第二次ポエニ戦争にイタリア半島を荒らされた恐怖は強く残っており、ローマ元老院の中には「カルタゴは滅ぶべし」と主張しまくっていた人もいるほどでした。そんな最中勃発したのが、第三次ポエニ戦争です。

第三次ポエニ戦争の発端 – ローマに許可なくヌミディアと交戦

カルタゴは、ローマの友好国であるヌミディア王マシニッサにたびたび領土を侵されていました。ローマに訴えても無視され続けたカルタゴは、ついに独断で軍を動かし、ヌミディアと交戦してしまいます。

これはローマにとって「カルタゴが条約に違反した証拠」でした。実際にはカルタゴは自衛のために動いたに過ぎませんが、ローマはこれを待っていたかのように第三次ポエニ戦争を開始します。

カルタゴの休戦交渉 – ローマの過酷な要求

戦争の発端は、ローマがカルタゴに出した過酷な要求です。全ての武器・軍船の引き渡すこと。そして、首都カルタゴの放棄と、10マイル内陸への移住でした

この要求に対し、カルタゴ市民は「死を選んでも都市を捨てることはできない」と一致団結。これにより、ローマは3年間に及ぶカルタゴ包囲戦を開始しました。

カルタゴ市民決死の抵抗

3年に及ぶ包囲戦の末、ついにローマ軍はカルタゴの防壁に突破口を開けました。カルタゴ市民はすでに飢えに苦しんでおり、まともに戦える状態ではありませんでしたが、家屋を要塞化し、路地に落とし穴、熱湯や油を使った罠などを仕掛け、なだれ込んでくるローマ軍に対し、必死に抵抗をしました。まさに「都市全体が戦場」となったのです。

ローマ軍を率いていたスキピオ・アエミリアヌス(ザマの戦いで活躍したスキピオ・アフリカヌスの孫)は、一軒一軒、建物ごとに制圧していく命令を出し、バリスタや火で建物ごと焼き払いながら進軍します。住民は地下室や神殿に逃げ込み、子どもや老人までが戦いに加わるほど絶望的な状況となりました。

カルタゴの城壁を破壊するローマ兵:出典By Edward Poynter

カルタゴ滅亡

かつて海の女王と謳われた都市、カルタゴ。香と染料が風に乗り、港には商船が並び、アフリカの太陽の下で、赤い土の大地に豊穣が芽吹いたカルタゴは、血と炎に包まれました。

カルタゴの将軍であったハスドルバルは、カルタゴ発祥の地であるビュルサの丘のエシュムン神殿(カルタゴ最大の神殿)に立てこもり、最後の抵抗を図りますが、最終的に降伏し、神殿から出てローマに投降。ところがその直後、彼の妻は夫の降伏を恥じ、2人の子どもとともに神殿に火を放ち、炎の中に身を投げました。

このときローマ軍率いるスキピオは、崩れゆく神殿の前に立ち尽くし、「この光景を見ると、ローマもいつかこのように滅びる運命にあるのではないかと思う。」と涙を流しながら、つぶやいたとされています。

カルタゴの滅亡

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カルタゴ滅亡のその後

カルタゴが滅亡した後(紀元前146年)、ローマは徹底的な破壊と制圧を行いました。ここでは、カルタゴ市民や都市がどうなったかの詳細を紹介していきます。

都市カルタゴの徹底破壊

ローマはカルタゴの街を完全に破壊しました。建物は焼かれ、破壊され、廃墟となりました。カルタゴは再建を禁じられ、カルタゴの大地には、二度と作物が育たないように「塩を撒いた」と言われます(※これは象徴的表現で、史実ではない可能性も高いです)。

カルタゴという都市は地図からも完全に消され、カルタゴ滅亡から100年間、かつてカルタゴがあった土地には誰も近づかなかったと言われます。

100年間カルタゴの残骸が放置されてたのかな。。。

カルタゴ市民の運命

生き残った約5万人の市民は、全員奴隷として売られました。特に、貴族や将軍クラスは処刑、あるいはローマに連行されて晒し者にされました。女性や子供も容赦なく連れ去られ、家族は引き裂かれました。

ローマは、敗北した都市国家に寛大な処置をすることが常でしたが、ローマを滅亡の寸前まで追い込み、幾度の敗北を経ても、不死鳥のごとく復活するカルタゴを恐れていたこともあり、生き残ったカルタゴ市民は壮絶な運命を迎えることになりました。

皇帝アウグストゥスによる新カルタゴ

カルタゴの廃墟には、のちにローマ皇帝ユリウス・カエサルが再建の意志を示し、アウグストゥスによって正式に「コロニア・ユリア・カルタゴ」として復興されます(紀元前29年ごろ)。

この「新カルタゴ」は後にアフリカ属州の首都となり、その後、キリスト教の一大拠点ともなります。

皇帝アウグストゥス:出典Till Niermann

 

    まとめ

    かつて西地中海の大国として繁栄し、海の女王とも謳われたカルタゴ。幾度となくローマに敗れたが、それでも不死鳥のごとく蘇りました。軍事力を封じられても、経済に注力し復活したカルタゴ。しかし、カルタゴの底力を恐れたローマに葬られ、100年もの間、誰も訪れない地となってしまいました。カルタゴの終焉は、単なる国家の終焉ではなく、一つの文明の終焉でした。

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