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海の民とは?海から来た終焉、古代文明を焼き尽くした謎の集団 解説

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海の民とは

「海の民」は、紀元前1200年前後の東地中海世界を襲い、数々の青銅器時代文明の崩壊に関与したとされる謎の民族集団の総称です。古代エジプトの記録、特にファラオ・ラムセス3世のメディネト・ハブ神殿碑文には、彼らが「北方の諸国から来て、すべての国を滅ぼしながら進軍した」と記されています。彼らの侵攻は、ヒッタイト帝国、ウガリット王国、ミケーネ文明、キプロスなどの都市国家に壊滅的打撃を与えました。海の民は単一の民族ではなく、複数の部族からなる連合軍であったと考えられています。

目次

彼らが何をしたのか――青銅器時代の終焉に関与

海の民は、紀元前13世紀末から12世紀初頭にかけて、東地中海一帯に壊滅的な影響を与えました。彼らは戦士だけでなく家族や家畜も伴った大規模な移動集団であり、単なる略奪者ではなく移住を意図した侵攻者でした。海の民の襲来により、多くの都市が焼かれ、交易路は断たれ、地域の政治・経済・軍事構造が根本から崩壊しました。結果として、青銅器時代に栄えた多くの国家や文明が衰退または滅亡へと追い込まれたのです。

海の民 地中海を侵略破壊

海の民の攻撃は明確な順序で進んだわけではありませんが、考古学的・文献的証拠から、ある程度の時系列が推測されています。最初に被害を受けたのはエーゲ海地域やアナトリア西部であったと考えられ、続いてシリア・カナン沿岸部、そしてアナトリア内陸のヒッタイト帝国へと波及し、最終的にエジプトへと到達しました。

彼らの戦闘力は非常に高く、エジプトにおいても脅威とされていました。ラムセス3世の碑文では、海の民が船団を組んでナイル河口に押し寄せた様子が描かれています。

  1. アナトリア西岸(ルッカ地方など)やクレタ島周辺の地域への襲撃(紀元前1200年頃)
  2. ウガリット王国(シリア北部)の破壊(紀元前1190年代)
  3. キプロス島(アラシヤ)の主要都市の壊滅(同時期)
  4. ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの崩壊(紀元前約1180年)
  5. レバント沿岸都市の破壊と占拠(アシュドド、アシュケロンなど)
  6. エジプトへの侵攻(紀元前1175年)

海の民に滅亡させられた国家・文明

海の民は、東地中海一帯を襲撃し、多くの文明国家を破壊・弱体化させました。彼らが破壊した都市には、ヒッタイトの首都ハットゥシャ、シリアの港湾都市ウガリット、そしてキプロス島のアラシヤなどが含まれます。また、ミケーネ文明の多くの宮殿もこの時期に破壊・放棄されました。

ヒッタイト帝国

アナトリア高原に広がっていた大国であり、紀元前約1180年ごろに突如として崩壊しました。首都ハットゥシャは焼き払われ、国家としての枠組みは完全に消滅しました。

ウガリット王国

現在のシリア沿岸にあった商業港湾都市で、海の民の侵攻直前に王が援軍を要請する書簡を残しています。都市は略奪・焼失され、以後再建されることはありませんでした。

キプロス(アラシヤ)

貿易拠点として繁栄していたキプロス島も海の民の攻撃を受け、主要な港市が壊滅し、その後の支配勢力が大きく変わりました。

ミケーネ文明

ギリシャ本土を支配していたミケーネ人の宮殿群がこの時期に次々と崩壊しました。ティリンス、ピュロスなどの王宮が破壊され、文明全体が崩壊していきました。宮殿文化や線文字Bは姿を消し、ギリシャ本土は「暗黒時代」に突入しました。

現在の研究では、海の民の襲来は、この時期に発生した文明の衰退や崩壊の一要因でしかなく、ほかにも気候変動などを含めた多様な要因が複雑に絡み合い、これら文明の衰退や崩壊が起きたのではないかと言われています。

なぜ彼らは強かったのか?――海の民の軍事力と時代背景

多民族連合としての戦力集中

海の民は単一の民族ではなく、多様な文化背景をもつ部族の連合体でした。シェルデン、ペレシテ、デニェン、シケレシュ、ルッカなどがそれぞれ独自の武装と戦術を持ち寄り、全体として柔軟性と破壊力を兼ね備えた軍団を形成していました。これにより、各地の防衛体制に対して適応力のある戦い方が可能となっていました。

高度な武装と装備

彼らはNaue II型と呼ばれる斬撃用の青銅長剣、丸型の盾、そして特徴的な角付き兜を装備していました。これらは当時の東地中海の一般的な装備よりも実戦的で、接近戦において有利でした。サルデーニャ島のヌラゲ文化に見られる戦士像と、エジプトのレリーフに描かれた戦士が酷似していることから、装備の共有や技術の伝播も考えられています。

上陸戦術と海上機動力

彼らは海上移動に長けており、船団を組んで沿岸部を急襲する戦術を駆使しました。小回りのきく船を用い、岸辺に急接近して戦士を素早く上陸させる「揚陸作戦」は、沿岸防衛の甘い都市国家にとっては致命的でした。また、敵軍の不在や食料不足を狙った時期的な攻撃も行っており、軍事的な計画性がうかがえます。

時代の脆弱性を突いた巧妙な侵攻

この時期、多くの東地中海文明は飢饉、内乱、外交的孤立に苦しんでいました。例えばヒッタイト帝国では食料危機が発生し、補給が絶たれていました。海の民はこれら文明の弱点を的確に突き、都市を孤立させて崩壊へと導きました。これは単なる蛮族の襲撃ではなく、状況を見極めた軍略の結果といえます。

移住型戦略の実行

彼らは略奪だけでなく、定住を視野に入れた移住も行っていました。女性や子ども、荷車を伴い、侵攻先に新たな社会を築こうとした形跡があります。これは一時的な侵略者ではなく、恒久的な生存圏の拡張を目指す集団だったことを示しています。

彼らはどこから来たのか?――出自と構成

海の民の出自については長年議論が続いており、明確な答えは得られていませんが、複数の有力な仮説が存在しています。

エーゲ海・アナトリア西部起源説

エーゲ海の島々(クレタ、ロードス)、アナトリア西部(現在のトルコ南西部)に起源を持つとする説です。ヒッタイトやウガリットの記録にも、これら地域の海上民族の活動が記されています。

西地中海(サルデーニャ、シチリア、イタリア半島)起源説

シャルダナ(サルデーニャ人)、シケレシュ(シチリア人)といった部族名がこれら地域に由来するとする説です。特にサルデーニャ島のヌラゲ文化に見られる戦士像がエジプト碑文の海の民と酷似しています。

複合起源説(連合体説)

海の民は一つの民族ではなく、複数の起源を持つ集団が飢饉や戦乱によって共同行動を取ったとする説です。現代のDNA研究では、ペリシテ人(Peleset)の一部がエーゲ海方面から移住してきた可能性が示されています。

彼らの中にはシェルデン、シケレシュ、ペレシテ、デニェン、ルッカ、トゥジェッケなど、さまざまな部族が含まれており、彼らの名はエジプトやヒッタイトの記録に散見されます。

海の民の最期――どこへ行ったのか? 誰が彼らを止めたのか?

海の民の活動の終焉は、紀元前1175年頃、エジプト新王国のファラオ・ラムセス3世によってもたらされました。エジプトのメディネト・ハブ神殿の壁画と碑文によれば、海の民は船団を編成してナイルデルタに迫りましたが、エジプトはこれを事前に察知し、準備を整えていました。

ラムセス3世の迎撃戦術

ラムセス3世は、まずデルタ周辺に陸上の待ち伏せ部隊を配置し、同時にナイル河口の要所に戦艦を配備して、敵船団が進入したところを海上から挟撃しました。海の民の大型船は河口に進入するや否や、エジプトの艦隊によって混乱に陥り、同時に岸辺からは矢と投石による集中攻撃が加えられました。

この連携攻撃により、海の民は海上と陸上の両方で壊滅的被害を受けました。捕虜はエジプトに連行され、一部はナイルデルタに定住させられ、また一部は傭兵として編成されました。碑文には「我は彼らを焼き払い、名を絶たしめり」との記述があり、ラムセスの勝利が強調されています。

海の民と戦うラムセス3世 – 出典Gray, Dorothea (1974)

その後の定住と吸収

海の民の一部はエジプトによって撃退されましたが、完全に滅ぼされたわけではありませんでした。特にペレシテ(ペリシテ)人は、その後レバント南部に定住し、五都市(アシュドド、アシュケロン、ガザ、エクロン、ガテ)を建設しました。これが後の聖書にも登場するペリシテ人の由来です。

また、チェケル(トゥジェッケ)人もパレスチナ北部のドールに定住し、一時的に都市国家を築いたとされています。シェルデン人や他の部族も、エジプトに捕らえられたのち、兵士として雇われたり、ナイルデルタに入植させられたりしました。

つまり、海の民の「終わり」は完全な消滅ではなく、東地中海沿岸に新たな民族として吸収・定住していく形で幕を閉じたのです。彼らの活動は青銅器時代の終焉を早め、鉄器時代への移行を促した要因の一つとされています。

 

まとめ

海の民とは、未曽有の規模で地中海世界を揺るがした移動型の戦士集団であり、その正体はいまだ完全には解明されていません。彼らの襲来は、当時の気候変動、飢饉、国際貿易の崩壊などと相まって青銅器時代の文明を崩壊させる一因となりました。

彼らの足跡は、戦火とともに各地に断片的に残され、現代の考古学者たちはそれらを丹念に拾い集めながら、いまだ解き明かされていない壮大な謎に挑み続けています。

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